ばくち打ち
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(5)
1980年代中期から2004年まで、つまりマカオに米資本の『サンズ・マカオ』(LVS=ラスヴェガス・サンズ社が事業者)がオープンするまで、『リスボア』内にあった数か所のジャンケット・ルームは、それはそれは華々しい場所だった。
中国共産党の幹部と日本の右派政治家や財界人たちが、同じテーブルで札を引いていたりする。
とりわけ「中曽根総理の裏の金庫番」といわれたTじいさん(故人)などは、足繁く『京(仮名)』という日本業者が仕切るジャンケット・ルームに現れた。
中曽根は、そもそも関東の暴力団と結びつきが強かったことで知られていたのだが、Tじいさんがそこで可愛がっていたのは、なぜか関西の広域指定暴力団Y組のSだった。
時代的には、KBS京都(京都放送株式会社)の内田知隆社長(当時)が、のちのイトマン事件で主役となる許永中と二人で、パレロワイヤル永田町にあった金丸信事務所に現金で14億円を運び込んだ(内田の証言)、という頃である。
おかしなカネが、日本中を音を立てつつ飛び交っていた。
それもほとんどは、現金で手渡しをされる。これ、日本のウラ経済の美しき伝統だ。
その一部は、マカオのカジノのジャンケット・ルームを経由して、国外に持ち出されたのは確かであろう。
バブルが破裂するまでの日本では、いやその後もその処理が一息つけた2000年ころまでは、日本のオモテ経済はウラ経済と仲良く二人三脚で発展/凋落してきたのである。
そのオモテ経済とウラ経済の挟間(はざま)で黒子を演じたのが、許永中であり、国際興業グループの創始者・小佐野賢治であり、1997年に射殺された宅見勝・五代目山口組若頭であり、石井隆匡(たかまさ)・二代目稲川会会長であり、大阪なら野村周史、京都なら山段芳春、東京なら廣済堂の櫻井義晃(本名文雄)といった、いわゆる「フィクサー」たちだった。
オモテとウラが渾然一体となった日本経済の仕組みについて、わたしはマカオのカジノのジャンケット・ルームで多くを学んだと思う。
これ以上書くと、いろいろと差し障りが生じそうなので、自粛して(笑)、話をジャンケットに戻す。
* * * *
ジャンケットのシステムは、STDM社として知られる澳門旅遊娛樂股份有限公司の総師スタンレー・ホー(Stanley Ho)とそのビジネス・パートナーだったテディ・イップ(Teddy Yip)が構築した、とされる。と先に書いた。
そしてそのシステムで、大陸の汚職官僚や党関係者、あるいはそれらとつるんだ産業人たちのカネを、大陸から香港の銀行口座に移動させた、現在の言葉でいえば「マネロン(=マネー・ロンダリング)」についても触れた。
ジャンケット・ルームで100万HKD(香港ドル)のクレジットを与えられた打ち手が、カジノのハコを出るときには、500万HKDとか1000万HKDとかの借金を抱えているのは、陳さんの例を持ち出して説明した。
カネを借りねばならないほど負けこんだ打ち手に、その窮地からの脱出はまず見込めない。
そもそも博奕(ばくち)が下手くそだから、受け身ができていないから、クレジット分をすっかりと溶かしてしまったのであろう。
そういう自覚すらもたず、負けて「目に血が入り」、ジャンケット業者、ないしはジャンケット・ルームにたむろす金融屋からカネを借りて、打ちつづける。
溶かしたクレジットと、業者や金融屋から借りた「忙しいカネ」の総量が、さらなる重圧となって、打ち手を押しつぶす。
まったく、勝てない。
それを取り戻そうとして、さらに挑む。
だから、またカネを借りる。
博奕場では、よく見掛ける風景だ。
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