ばくち打ち
番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(20)
1968年3月28日、約800人のゲストが招待され、豪華・盛大なお披露目パーティが、ソウル広津区のウォーカーヒル・ホテルで開催された(このお披露目パーティは2回開催され、計1600人のゲストが集まった、とする説もある)。
韓国政府関係者を除けば、そのお披露目パーティの招待客のほとんどが、日本からの者たちだった。
さて、ハウス側は、その日本からの招待客リストをどうやって作成したのか?
日本の非合法賭場(どば)の上客リストを、そっくりそのまま流用したのだった(笑)。
そもそもゲーム賭博が禁止されている日本での博奕(ばくち)好きたちのカネを吸い上げるために、軍事独裁政権によって構想されたのが、韓国のカジノであるそうだ(それゆえ「内国人入場禁止」)。
おそらくその800人か1600人の招待客リスト提供への功績もあってのことだろうが、同年に「猛牛」こと広域指定暴力団(当時)東声会の町井久之会長は、朴正煕(パクチョンヒ=朴槿恵・前大統領の父親)韓国大統領より国民勲章・冬栢章を与えられている。
話が飛んだついでに、もっと飛んでしまう(笑)。
わたしは中学から高校にかけての数年間を、六本木交差点から麻布十番に抜ける芋洗坂(いもあらいざか)にあった、敷地だけはやたらと広大だったがいまにも倒壊しそうなぼろぼろのあばら家で過ごしている。1960年代の前半だった。
あの頃の六本木は、まだ地下鉄も通っていなかった。新橋と渋谷を結ぶ路面電車(通称・ちんちん電車)があったくらいである。
昼間は「陸の孤島」として知られたのどかな六本木なのだが、夜になるとその風貌が一変した。
敗戦によって接収された米軍の諸施設があり、おまけにその数年前にはNET(現・テレビ朝日)の開局もあって、夜な夜な金持ちたちのアホぼん・ベッチョむすめたちが群れ始めた頃だった。
神戸牛の瀬里奈、中華料理の香妃園や魯山といった、来日の際にはハリウッド俳優たちが必ず立ち寄る有名どころも多かった。しかし、「東京のマフィア・ボス」ニック・ザペッティが経営する二コラスを筆頭として、怪しげなレストラン・クラブなども、それ以上に存在した。
のちに稲川会本部もできたのだが、当時の六本木のウラ社会を牛耳っていたのは、圧倒的に港会(住吉会の前身)だったと思う。
学校にはほとんど通わず、夜になると元気になる地元の不良少年であったから、忘れ難い状景も数多く目にした。
怪しげなクラブあるいは路上でトラブルが起こると、いつもどこからともなく真っ先に駆けつけたのは、なぜか、港会ではなくて東声会の若い衆たちだった。
190センチ110キロはある米軍の大男に、頭を割られながら、叩き付けられても叩きつけられても向かって行った東声会の若い衆のことなど、その破れたシャツの色まで含み、まだわたしの記憶に鮮明に焼き付けられている。
ある時など、不良外人(といっても米軍関係者だが)5人を相手にして、氷屋の氷を切る大型ノコギリで、おっさんが単身で切りつけていった。
当時は都心でも、氷屋は巨大な氷塊をリヤカーに積んで、飲食店に届けた。おそらく飲食店に「守(も)り代(=みかじめ)」代わりの氷を供給するのが、あのおっさんの昼間の仕事だったのだろう。しかしその背中全面には、「一匹虎」の入れ墨。背中にまで飛んだ返り血で、虎が赤い涙を滴らせていた。
あれは、わたしがこの歳になっても、決して忘れることができない情景である。
そういう「根性もん」の荒くれ男たちをまとめていたのが、「猛牛」町井久之だった。
最盛期に東声会の構成員は、1600人を超したそうである。
東声会が仕切る非合法賭場が、六本木・赤坂・銀座をはじめとして川崎・横浜・千葉を含む関東地区の諸都市に六十盆前後あった、と言われる。
もちろん、当時の関東の賭場(どば)のことだから、どこでもバッタまき(別名・アトサキ)の盆だった。
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