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「やっぱり潮を吹く女の方が好き?」彼女はアサリを見ながらつぶやいた――爪切男のタクシー×ハンター【第二十四話】

 乱歩の死から時は流れ、私は立派な大人に成長していた。  仕事に追われるだけの毎日で、精神的な余裕を失った私は本当に疲れていた。疲れ過ぎてインポにまでなってしまったのだから一大事である。軽い気分転換もかねて何かペットでも飼おうかと思い立った。私が住んでいたアパートはペット不可の物件ではあったが、工夫次第で内緒で飼うこともできそうな環境ではあった。しかし、同棲中の彼女が精神安定剤の断薬生活に入っていたので、その副作用として起こるであろう錯乱状態に陥った彼女がペットに危害を加える可能性も考えられた為に、犬や猫を飼うのは危険だった。以上の不安をすべてクリアできるペットとして考えられたのは、アサリしかなかった。  子供の時の苦い過去の克服も兼ねて、アサリの飼育に再チャレンジすることにした。事前にインターネットで飼育方法を調べ上げる。その情報を持ってペットショップに突撃。店員からアサリ飼育時の注意事項を細かく教えてもらった。アサリの飼育に関しては非常に難しいということ、ベストな飼育方法はまだ確立されていないことを教えてもらう。とりあえず海に近い住環境を準備する為に水槽を購入。人工海水にアサリが潜る砂、適度に空気を送り込むエアーポンプを購入した。餌は乾燥したエビを細かく砕いて食べさせろとのことだった。  万全の飼育環境を整え、次はアサリを探すことにした。ペットショップの店員が言うには、スーパーで売っているアサリは生きており、充分飼育できるとのことだった。早速、近所のスーパーで買ってきたアサリの中から、厳選した四匹のアサリを飼育することにした。精鋭四匹。アサリ四天王である。もちろん名前は玄武、白虎、朱雀、青龍だ。投入されたアサリはしばらく微動だにしなかったが、小一時間放置をすると、殻の隙間から体をニョロニョロと出して動き始めた。その不気味さがまた可愛い。やがて、アサリ達は水槽に敷き詰められた砂の中にその身を隠した。姿が全く見えない為に観察も何もできないのだが、アサリの生活を垣間見ることができたことが何より嬉しかった。互いに慣れ合うことをせず共存している立ち位置も四天王っぽくていいじゃないか。同棲中の彼女は、冷たい目で私とアサリ四天王を見ていた。  翌日、仕事をサボって一日中アサリの観察をしたい衝動に駆られつつも出社。私の部下であるラッパー達にアサリの飼育を始めたことを意気揚々に報告したところ「編集長、イルですね、最高っすよ」と言われた。イルってなんだ。自分のヨットを何隻も所有する程に海好きの社長からも「きっかけがアサリでも何でもいいから、お前が海に興味をもってくれたのが嬉しいよ」と褒められた。アサリが職場の人間関係を良くしてくれた。  早くアサリに会いたい一心で、その日の仕事をいつもの倍の速度で済ませて定時に帰宅。その時、私が目にしたのはアサリの味噌汁を作る彼女の姿であった。断薬による錯乱状態に陥っている様子はないが、恐ろしいほどの無表情で泡立つ鍋の中を見ていた。玄武、白虎、朱雀、青龍は鍋の中に居た。私は、アサリとまた死別した。 「……何してんだよ」 「……おかえり、料理してんだよ。見れば分かるじゃん」 「アサリ……」 「そうだよ、アサリの味噌汁だよ」 「俺のアサリだろうが! 俺のペットだぞ!」 「……」 「何やってんだよ!」  彼女と付き合って五年以上の月日が経つが、こんなに大声で怒鳴ったのは初めてだった。彼女は大声を上げて、その場に泣き崩れた。私の怒りはまだ治まらなかった。 「泣くのはやめろ。俺は別に悪いことしてないのにさ、そっちに泣かれると俺が悪いみたいになるからさ」 「……」 「……黙ってんなら……風呂入るわ」 「……貝よりも私のこと大事にしろよ!!」  声を振り絞って叫んだ彼女の当たり前の一言が私の胸に深く突き刺さった。私は何も言えなかった。お互いに一言も話すことはなかった。その日の夜、一緒に住み始めてから、初めて別々の布団で寝た。胸が痛い。喧嘩の原因がアサリなのだから余計に胸が痛い。この世はどこもかしこも地獄、生き地獄だ。
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翌朝、平静を取り戻した彼女の方から謝ってきた
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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

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