ケン・パテラ “怪力世界一”の誤算――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第44話>
“ワールド・ストロンゲスト・マン=怪力世界一”のニックネームで一世を風びした典型的パワー・ファイター。
500ポンドのバーベルをオーバーヘッドでクリーン・ジャークした最初のアメリカ人として知られ、ミュンヘン・オリンピック(1972年)ではウエート・リフティング・スーパーヘビー級で4位入賞。
バーン・ガニアにスカウトされ、31歳でプロレスに転向した。“ガニア道場”の練習生時代のエピソードは、ケン・パテラと同期生だったリック・フレアーの自伝本『トゥー・ビー・ザ・マン』にくわしく描かれている。パテラは、あくまでも職業としてプロレスを選択した。
デビュー当時はクリーンカットなイメージのベビーフェースだったが、ヒールに転向して“プロレス開眼”した。
ブルーノ・サンマルチノのWWE世界ヘビー級王座に挑戦したタイトルマッチが3カ月連続でマディソン・スクウェア・ガーデン定期戦(1977年1月-同年3月)のメインイベントにラインナップされ、スーパースターとしてのステータスを手に入れた。
アメリカの3大ネットワークのひとつ、NBCの人気スペシャル番組“ワールド・ストロンゲスト・マン・コンテスト”(1977年)にも出場。
世界じゅうの怪力自慢とのパワー・コンテストで第3位に輝いた。ちなみに第4位はTVシリーズ“超人ハルク”でハルク役を演じたルー・フェリグノだった。
ルーキー時代は元重量挙げ選手らしい320ポンドを超える“アンコ型”の体つきだったが、50ポンドの減量に成功して体脂肪率の低いボディービルダー・タイプの筋肉ボディーに変身。
髪をプラチナ・ブロンドに脱色して、いわゆる1980年代モードのヒールにシフトチェンジした。
マディソン・スクウェア・ガーデンでパット・パターソンを下してインターコンチネンタル王座を獲得し(1980年4月21日)、それから4日後に“NWAの総本山”キール・オーデトリアムでケビン・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取(1980年4月25日=ミズーリ州セントルイス)。
ひとりのレスラーがWWEとNWAのメジャー・タイトルを同時に保持するというケースはひじょうにめずらしいが、パテラは約7カ月間にわたり2本のベルトをキープし、ニューヨークとセントルイスを往復しながらの王座防衛活動をつづけた。このあたりが現役生活のピークだった。
1
2
※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。
※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です
※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です
『フミ・サイトーのアメリカン・プロレス講座 決定版WWEヒストリー 1963-2001』 WWEはいかにして世界を征服したのか?幾多の危機を乗り越え、超巨大団体へと成長を遂げたその歴史を克明に描く「WWEの教科書」 |
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ