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リック・フレアー ザ・グレーテスト・レスラー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第73話>

リック・フレアー ザ・グレーテスト・レスラー<第73話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第73話は「リック・フレアー ザ・グレーテスト・レスラー」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 世界ヘビー級王座を“通算17回獲得”したミスター・プロレスである。  この“通算17回獲得”の公式レコードはひとつのトレードマークのようなもので、古い記録を調べてみるとNWA世界ヘビー級王座を10回、WWE世界ヘビー級王座を2回、WCW世界ヘビー級王座を7回獲得しているから正確には通算19回という計算になる。  おそらく、リック・フレアーのなかでなんらかの理由で“抹消”されているピリオドがあるのだろう。  フレアーのいちばんお気に入りのキャッチフレーズは“トゥー・ビー・ザ・マン・ユーブ・ガッタ・ビート・ザ・マンTo be the man, you’ve gotta beat the man”だ。  できるだけそのニュアンスを壊さないような日本語に訳すとするならば、「オトコ=大物になるのはオトコ=大物を倒すことだぜ」といった表現になる。  フレアーの自伝本『トゥー・ビー・ザ・マンTo Be The Man』は、このフレーズのアタマの部分がそのままタイトルになっている。  出版の企画段階では“ザ・ダーティエスト・プレーヤー・イン・ザ・ゲーム(業界イチのワル)”がタイトル候補にあがっていたが、最終的にはフレアーが“トゥー・ビー――”を選択したのだという。  この本の序章=イントロダクションでは、トリプルHが“素顔”のポール・レベックとして尊敬するフレアーへの想いを“ザ・グレーテスト・レスラー・オブ・オール・タイムThe greatest wrestler of all time”ということばでつづっている。  フレアー自身は、この“ザ・グレーテスト・レスラー”という概念をフランク・ゴッチやルー・テーズよりも、ブルーノ・サンマルチノやバーン・ガニアよりも、ゴージャス・ジョージやハルク・ホーガンよりも、という6人のスーパースターたちとの比較論で定義している。  フランク・ゴッチとルー・テーズは20世紀のプロレスの始祖。サンマルチノとガニアはオールドファッションな白黒テレビの時代のワールド・チャンピオンで、“豪華なジョージ”とホーガンは――アメリカのプロレス史上、もっとも一般的知名度の高い――エイジレスでタイムレスな偉大なるエンターテイナーである。  フレアーは、テネシー州メンフィスで生まれた。プロフィル上の出身地がミネソタ州ミネアポリスになっているのは、生後2週間でミネソタ州イダイナ在住の産婦人科医リチャード・リード・フレイヤー&キャスリーン夫妻にアダプトされたためだ。  フレアーは実母の名を知らない。フレイヤー家の養子となったフレアーはリチャード・モーガン・フレイヤーと名づけられた。リックはリチャードの幼名だった。  ミネソタ大学を中退後、ミネアポリスの“バーン・ガニア道場”でガニア、ビル・ロビンソンのコーチを受け、1972年12月、AWAでデビュー。  “ガニア道場”の同期生にはケン・パテラ、ガニアの息子グレッグGreg Gagne、ジム・ブランゼルJim Brunzell、コズロー・バジーリ(のちのアイアン・シーク)らがいた。  デビューから1年後、AWAのサーキット仲間だったワフー・マクダニエルがフレアーをNWAジム・クロケット・プロモーション(ノースカロライナ州シャーロット)に呼び、それ以来、シャーロットがフレアーのホームタウンになった。  フレアーの40年のキャリアをふり返ることは、そのまま1970年代、1980年代、1990年代、そして2000年代のアメリカのプロレス史をひも解くことと等しい。
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初来日はラッシャー木村と金網デスマッチ
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