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テッド・デビアス “億万長者”から神の救いへ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第67話>

テッド・デビアス “億万長者”から神の救いへ<第67話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第67話は「テッド・デビアス “億万長者”から神の救いへ」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 アメリカではテッド・デビアスよりも“ミリオンダラー・マン”というキャラクター・ネームのほうがはるかに知名度が高い。

 1980年代から1990年代にかけてのWWEの長編ドラマのもっとも重要な登場人物のひとりで、ハルク・ハーガン、ランディ・サベージらのライバルとして活躍。

 首の負傷で現役生活にピリオドを打ったあとは、“ストーンコールド”に変身するまえの“リングマスター”スティーブ・オースチンのマネジャーをつとめた。

 父親――正確には母親の夫――の“アイアン”マイク・デビアスMike DiBiaseは1960年代に活躍したプロレスラーだったが、デビアスが15歳のときに試合中に心臓発作で急死。

 その後、母親ヘレンが神経症とアルコール依存症で入院したため、デビアスは父親の親友だったドリー・ファンク・シニアのもとに預けられ、テキサス州アマリロで生活するようになった。

 ハイスクールを卒業後は多くの先輩レスラーたちが通ったウエスト・テキサス州立大に進学したが、3年で中退し、1974年にドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのコーチを受けてプロレスラーとしてデビューした。

 デビアスはルーキー時代からリック・フレアーとつねに比較され、1970年代の終わりごろになるとフレアーとともに“NWA世界ヘビー級王座にもっとも近い男”と評された。

 NWA世界王座への“試金石”とされるミズーリ・ヘビー級王座(NWAセントルイス)を通算2度獲得し、ホームリングのミッドサウス地区(ルイジアナ=ビル・ワット派)ではノース・アメリカン王座を通算5回獲得したが、結果的にNWAセントルイスとNWAクロケット・プロ(ノースカロライナ)の主導権争いがデビアスを“レイス・モデル”の黒革のチャンピオンベルトから遠ざけた。

 デビアスには3人のコーチがいた。プロレスの基礎を教えてくれたドリー、ルイジアナをいっしょにサーキットしながらプロレスラーのライフスタイルとそのノウハウを伝授してくれたディック・マードック、そして、全日本プロレスでタッグを組んだスタン・ハンセン。

 いずれもウエスト・テキサス州立大の先輩たちだった。全日本プロレスのリングでは、ブルーザー・ブロディが新日本プロレスに移籍したあとのハンセンの新パートナーに起用され『世界最強タッグ』(1985年=昭和60年)に優勝した。

 “ミリオンダラー・マン”の長編ドラマは、ビンス・マクマホンからデビアスの自宅にかかってきた1本の電話からはじまった。

 ビンスは「キミにピッタリの役がある。ミーティングをセッティングしたい」といって、デビアスをコネティカット州スタンフォードのタイタン・タワーに呼んだ。

 翌朝、WWEからファーストクラスの航空券が送られてきた。ニューヨークのラガーディア空港に着くと、こんどはバゲージクレームを出たところでリムジンがデビアスの到着を待っていた。すでに物語は動きはじめていた。

 “億万長者”に変身する8年まえ、まだ20代だったデビアスはWWEを9カ月間サーキットしたことがあった。

 デビアスがルイジアナから持ち込んだノース・アメリカン王座をWWEが新タイトルとして認定。パット・パターソンがデビアスを下して同王座を奪い(1979年6月19日=ペンシルベニア州アレンタン)、これがインターコンチネンタル王座に改称されて現在に至っている。

 デビアスは33歳で“億万長者”に変身し、それから約9年間、現実とファンタジーの境界線をさまよいながら全米ツアーをつづけた。

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プライベートでも常に“ミリオンダラー・マン”を演じた

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