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ジェフ・ジャレット “サザン・スタイル”最後の継承者――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第96話>

ジェフ・ジャレット “サザン・スタイル”最後の継承者<第96話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第96話は「ジェフ・ジャレット “サザン・スタイル”最後の継承者」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 WWEのモノポリー体制に対抗して新団体TNA(トータル・ノンストップ・アクション)を設立し、リングの上の主人公とプロデューサーの二足のわらじをはいた“プロレス運動家”である。  プロレスラーとしてもプロモーターとしてもひじょうにオールドファッションな発想の持ち主で、TNAのリングではアメリカのプロレス史の“骨とう品”とされるハーリー・レイス・モデルのNWA世界ヘビー級王座を復刻させた。  祖母クリスティン・ジャレットは1930年代から40年以上にわたりテネシーのプロレス団体(ニック・グーラス派)でブックキーパー(経理)、チケット・セールス、プロモーター、ブッカーなどを歴任した“女流プロモーター”。  父ジェリー・ジャレットも1970年代から1990年代前半までプロレスラー兼プロモーターとして活躍した人物だった。  ジャレットの父ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが共同オーナーをつとめたUSWA(ユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーションUnited States Wrestling Association=テネシー州メンフィス)は、メジャー団体とは一線を画す1980年代の“南部の独立テリトリー”だった。  レスリング・ファミリーとしてはサード・ジェネレーションにあたるジャレットは、少年時代から“家業”を手伝い、ハイスクールを卒業と同時にプロレスラーとしてデビューした。  テネシー、プエルトリコ、ダラスWCW(1989年8月、テネシーUSWAと合併)をサーキット後、地元テネシーでアシスタント・プロデューサーとなったが、USWA活動停止後、1993年10月にWWEと契約。“ダブルJ”のニックネームでカントリー・シンガーのキャラクターを演じた。  WWEに3年間在籍後、WCWに電撃移籍(1996年10月)し、それから1年後にはまたWWEに復帰。  ビンス・マクマホンと衝突をくり返し、WWE退団と同時にWCWと再契約したが(1999年10月)、こんどはWCWが活動休止(2001年3月)となった。  1990年代後半はWWEとWCWのメジャー2団体をつねに行ったり来たりしていた。そういった政治的ムーブを可能にしていたのは、どんなシチュエーションのどんなポジションでもプロデューサー側が求める役どころをきっちりとこなすことのできるプロフェッショナルとしてのパフォーマンス・レベルの高さだった。  トレードマークの“ギター攻撃”は、ジャレットにとってはヒールとしてのアイデンティティー。ルーキー時代にベビーフェースとヒールを経験し、結論としてヒールを選択した。  これはジャレットがひじょうにオーソドックスなレスリングを得意とする地味なレスラーであったことと関係している。  ヒールは“運転席”でベビーフェースは“同乗者席”なのだという。 「地球上のほかのだれよりもたくさんのライブショーを観てきた」と豪語するジャレットの少年時代から培われてきた“プロレス観”とその経験からくるプライドは、あるときはWWEのカラーにフィットし、またあるときは大きな障壁となった。  ビンスはライバル団体だったWCWを買収するさい「ジェフ・ジャレットだけは使わない」と公言した。  ビンスに目のカタキにされたことで、パラドックス的ではあるが、かえってジャレットのネームバリューは上がった。
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新しいプロレスの構築と新しいファン層の開拓も大切
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