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マサ斎藤 アメリカでいちばん有名なSAITO――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第43話>

マサ斎藤 アメリカでいちばん有名なSAITO<第43話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第43話は「マサ斎藤 アメリカでいちばん有名なSAITO」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 フリーの“一匹狼”として20年間、アメリカをサーキットした国際派レスラーである  明治大学時代はアマチュア・レスリングで活躍し、東京オリンピック(1964年=昭和41年)ではフリー・スタイルのスーパーヘビー級で7位入賞(ウィルフレッド・ディートリッヒとラリー・クリストフとタイスコア)。  1965年(昭和40年)、日本プロレスに入門したが、翌1966年(昭和41年)、アントニオ猪木と豊登が設立した東京プロレスに移籍し、同団体崩壊後、1967年(昭和42年)4月にフリーの立場で単身アメリカに渡った。  マサ斎藤は34年のキャリアのうちの20年、25歳から45歳までをアメリカのリングで過ごした。  れっきとした日本人ではあるが、アメリカではステレオタイプのジャパニーズ・ヒールとしてキンジ・シブヤKenji Shibuya、ミスター・フジMr.Fujiといった日系アメリカ人レスラーとタッグを組む機会が多かった。  ことばのカベよりも、どちらかといえば文化のカベに苦しんだ。試合会場で販売されるプログラムには“東京オリンピックの銀メダリスト”といった誇大広告が載っていたが、試合ではアマチュア・レスリング仕込みのテクニックをディスプレーするチャンスはあまりなかった。  日系アメリカン人口が多い西海岸エリアのサンフランシスコとカナダ・バンクーバーを長く主戦場とし、サンフランシスコ(ロイ・シャイヤー派)ではK・シブヤとのコンビでNWA世界タッグ王座を通算2回保持。  レイ・スティーブンス、パット・パターソン、ペッパー・ゴメス、ペドロ・モラレス、ロッキー・ジョンソンら人気者たちと因縁ドラマのロングランを演じ、メインイベンター・クラスに格づけされた。  フロリダではグレート・カブキに変身するまえのミスター・サトとのコンビでNWA・USタッグ、フロリダ・タッグ王座(1978年3月)、シングルではフロリダTV王座(1980年5月)を獲得。  フロリダではシロウトのケンカ自慢をリングに上げての“チャレンジ・マッチ”が企画されることがあり、プロモーターのエディ・グラハムがそういうときに“仕置き人”として指名するレスラーが斎藤だった。  WWE在籍時代はミスター・フジとのコンビでWWE世界タッグ王座を通算2回保持(1981年10月3日=ペンシルベニア州アレンタウン、1982年7月13日=同)。  1983年、AWAに転戦。ジェシー・ベンチュラとのタッグチーム“ファー・イースト・ウエスト・コネクション”で活動したほか、ニック・ボックウィンクルともコンビを結成した。
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レスラー人生が“一時停止”する大事件
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