カート・アングル あっというまに“伝説の男”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第94話>
カート・アングルは、オリンピックの金メダリストからWWEスーパースターへの華麗なる変身をとげたエリート・アスリートのなかのエリート・アスリートである。
ひじょうに短期間でアマチュア・レスリングからプロレスへのアジャストに成功した点では“天才プロレスラー”ということになるのかもしれない。
アングルはアマチュア時代、数多くの“将来のプロレスラー”たちと闘った。1988年のNCAA選手権ではダン・スパーンと対戦(1-0で判定負け)。
1992年のNCAA選手権決勝ではプレデター(シルベスター・ターキー)を下し優勝。1996年のUS選手権オリンピック選考大会ではマーク・コールマン、マーク・ケアらと同一ブロックだった。
アングルは熟考に熟考をかさねたうえでプロレスを選択した。1996年のアトランタ・オリンピック終了後、WWEは年俸25万ドルの複数年契約でアングルをプロレスにスカウトした。
このとき、アングルはこのオファーを断り、ホームタウンのペンシルベニア州ピッツバーグのテレビ局でスポーツ・キャスターとしての仕事をスタートした。
オリンピックに出場した時点ですでに首を故障していたため、2000年のシドニー・オリンピック出場をめざして4年間のトレーニングをつづけるというオプションは考えていなかった。
それから2年後、アングルはプロレス転向を決意し、みずからWWEとコンタクトを図った。スポーツ・キャスターという職業は、アスリートのアングルにとってはひじょうに退屈なものだった。
1998年8月、ドリー・ファンク・ジュニアのコーチのもとでプロレス式のトレーニングをスタートしたアングルは、練習開始からわずか4日後、マサチューセッツ州セーラムのインディー・ショーでトム・プリチャードを相手に“極秘”のデビュー戦をおこなった。
「子どものころからプロレスはほとんど観たことはない」と公言していたアングルは、驚くべきスピードでプロレスの“型”を吸収していった。
WWEはアングルをテネシーのインディー団体に送り込み、試合をさせながらこの大型新人を1年がかりで“熟成”させる作戦をとった。
アングルは1999年11月、TVデビューと同時にメインイベンター・クラスの登場人物になった。
リング・コスチュームはアマレスのイメージを残す赤、白、青の星条旗カラーのシングレットで、衣装の一部として首から金メダルを2本ぶら下げた。
ひとつは1995年の世界選手権大会に優勝したときの金メダルで、もうひとつはアトランタ五輪の金メダル。
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