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アンドレ・ザ・ジャイアント 20世紀の“ガリバー旅行記”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第51話>

 アンドレにはある“弱点”があった。それは、ずっと同じ場所にとどまっていると商品価値、観客動員力が落ちてくるという現実だった。

 モントリオールの観客にとって、いつもそこにいる“大巨人”はそれほどめずらしい存在ではなくなってしまった。この経験はアンドレにとっても、プロモーターにとってもひとつの教訓となった。

 アンドレの日本における最初の名勝負は、なんといっても国際プロレスの『第3回IWAワールド・シリーズ』(1971年=昭和46年3月)決勝戦だった。

 モンスター・ロシモフ(当時25歳)はビル・ロビンソン、カール・ゴッチとの決勝リーグを制して優勝。なんと、ゴッチからは大殊勲のフォール勝ちをスコアした。

 アンドレのマネジャー、F・バロアがWWEオーナーのビンス・マクマホン・シニアとミーティングをおこなったのは1972年12月のことだった。

 マクマホン・シニアは、モントリオールのジーン・フェレをアンドレ・ザ・ジャイントに改名し、マディソン・スクウェア・ガーデンのリングにデビューさせた(1973年3月26日、対戦相手はバディ・ウルフBuddy Wolfe)。

 アンドレの“弱点”を見抜いていたマクマホン・シニアは、この“新商品”をニューヨークには定着させず、WWE専属契約のタレントとして1年を通じて全米各地のNWA加盟テリトリー、AWA、カナダ、日本、メキシコなどへ短期間のツアーをブッキングするというまったく新しいマーケティング戦略を発案した。

 1970年代のアメリカのプロレス界はWWE、NWA、AWAのメジャー3団体が不可侵条約を結び、地方分権型の市場が確立されていた時代だった。

 アンドレはそんな時代性を象徴するような“親善大使”として世界でただひとりの超党派のスーパースターに変身した。

 アメリカじゅうのローカル団体がアンドレを目玉商品に“史上最大のスーパーイベント”をプロデュースをした。

 “ギネスブック”の1974年版には「年俸世界記録40万ドルのレスラー」としてアンドレの名が掲載された。いまから40年以上まえの40万ドル(1ドル=300円換算で約1億2000万円)は天文学的数字だった。

 プロレスのフレームからはみ出したセレブレティーとなったアンドレはTVシリーズ『600万ドルの男』(1976年)、映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年)をはじめ、多数のテレビ番組、映画にも出演した。

 『スポーツ・イラストレーテッド』誌(1981年12月21日号)がアンドレの半生をノンフィクションにまとめ、映画化の企画がすすめられたこともあったが、アンドレ自身がそれを望まなかった。“大巨人”はつねに大衆の好奇の目にさらされる運命にあった。

 アンドレの世界規模のサーキット生活は、現在のビンス・マクマホンが全米マーケット進出計画に着手する1984年までつづいた。父マクマホン・シニアから興行会社をテイクオーバーしたビンスは、NWA、AWAと絶縁し、“親善大使”アンドレの年間スケジュールも凍結した。

 アンドレがまさかのヒール転向を果たし、“レッスルマニア3”でホーガンとの世紀の一戦が実現するのはそれから3年後のことだった。しかし、40代にさしかかったアンドレの肉体はすでに限界に近づいていた。

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生涯最後の試合は、日本武道館

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