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ブルーザー・ブロディ 超獣革命は“天国への階段”だったのか――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第50話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第50話は「ブルーザー・ブロディ 超獣革命は“天国への階段”」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 ドレッシングルームにいたレスラーたちはその瞬間、ブルーザー・ブロディの悲鳴をはっきりと耳にした。叫び声はシャワールームのなかから聞こえた。  血だらけのブロディが、腹部の傷口を右手で押さえながらそこに立っていた。レスラー仲間数人がブロディを抱きかかえてドレッシングルームのフロアに寝かせた。  ブロディの足どりはわりとしっかりしていて、そばにいたダッチ・マンテルDutch Mantel、トニー・アトラスTony Atlasらと会話を交わしていたという。  救急車が到着するまでどのくらいの時間が経過したのか、だれもはっきりとは記憶していない。ブロディは腹部と胸を合計3カ所、刺されていた。  プロモーターのカルロス・コロンCarlos Colonがドレッシングルームにかけつけると、ブロディはコロンに向かい「なにがあってもオレの息子を守ってくれ」とだけ伝えた。  ブロディを刺したホセ・ゴンザレスJose Gonzalesはすでにその場から姿を消していた。  ブロディ=フランク・グディッシュは典型的なフットボール・プレーヤー上がりのプロレスラーだった。  ミシガンのハイスクールを卒業後、フットボール奨学金をもらい名門アイオワ州立大に進学したが、単位不足で奨学金をはく奪され、ウエスト・テキサス州立大に転学。  しかし、ふたつめの大学もフットボール部には在籍したが授業にはほとんど出席せずに中退。1968年にNFLワシントン・レッドスキンズと契約するが、ヒザのケガで2シーズンで解雇。  エドモントン・エスキモーズ(CFL)、サンアントニオ・トロス(独立リーグ)に在籍後、サンアントニオのジムでトレーニング仲間だったアイバン・プトスキーIvan Putskiに勧められ、1973年にプロレス転向を決意した。  オクラホマ―ルイジアナのトライステート地区(リロイ・マクガーク派)でフランク“ザ・ハンマー”グディッシュのリングネームでデビューしたブロディは、ここでウエスト・テキサス州立大フットボール部時代のチームメートだったスタン・ハンセンと再会し、タッグチームを結成(1974年10月)。約1年間、USタッグ王者として活躍した。  ハンセンはこの時代のことを「ギャラがあまりにも安かったので1ドルでも節約するためにふたりで車のなかに寝泊りしていた。フランクはそのころからプロモーターという人種を憎んでいた」とふり返る。  このブロディ&ハンセンのコンビがタッグチームとして全日本プロレスのリングで活躍したのは1982年(昭和57年)からから1984(昭和59年)までの3年間で、『83世界最強タッグ』に優勝。  1984年には初代・世界タッグ王者となるが、1985年(昭和60年)にブロディが新日本プロレスに移籍したためチームは自動的に解散。1987年(昭和62年)10月にブロディが全日本プロレスに復帰後はふたりがタッグを組むことはいちどもなかった。  苦難のルーキー時代をルイジアナ―ミシシッピ―オクラホマの深南部で過ごしたブロディは、その後、テキサス州ダラス(フリッツ・フォン・エリック派)を経由してNWAフロリダ(エディ・グラハム派)に転戦。  フロリダではロッキー・ジョンソン(ドゥエイン“ザ・ロック”ジョンソンの父親)を下しフロリダ・ヘビー級王座を獲得した。
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マクマホン・シニアから新リングネームをプレゼントされた
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