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ファビュラス・フリーバーズ “自由な鳥たち”というロード・ムービー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第58話>

 ゴージャス・ジョージの時代から音楽をかけてリングに入場してくるプロレスラーはいたけれど、フリーバーズが“フリーバード”で入場してくるようになったら、南部のほとんどのレスラーたちがBGMを使うようになった。ひとつのトレンドが誕生した。

“自由な鳥たち”フリーバーズは、メンフィスからルイジアナ(ビル・ワット派)へと流れていった。

 ゴーディとヘイズにとってフリーバーズはただのタッグチームではなくて、ロード・ムービーのようなライフスタイルだった。

 車のなかではいつもサザン・ロックがガンガンにかかっていて、ジャック・ダニエルのボトルをラッパ飲みしながらフリーウェイをどこまでも走った。

 缶ビールは水代わりで、タバコはマールボロの赤箱。トイレに行きたくなると、どこででも用を足した。

 プロモーターのワットは、ふたりがいつかとんでもないことをしでかすのではないかと心配してベテランのバディ・ロバーツをフリーバーズの3人めのメンバーに加えた。

 ゴーディとヘイズははじめのうちはロバーツを仲間とは認めなかったが、ロバーツは「オレもお前たちの車に乗る」と宣言した。

 ゴーディとヘイズは、ロバーツにチャンスを与えた。それはミシシッピー州ジャクソンからルイジアナ州シュリーブポートまでの220マイルの道のりを“ビール攻撃”と“小便攻撃”のなかで過ごすという通過儀礼だった。

 さえない中年レスラー、ロバーツは後部座席でびしょびしょになりながらこの苦行に耐えた。

 3人組になったフリーバーズはルイジアナ、アラバマ、アトランタを渡り歩いたあと、ダラスWCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング)にたどり着いた。

 フリーバーズ対ケビン、デビッド、ケリー、マイクの“鉄の爪”エリック4兄弟の因縁ドラマは毎週金曜のダラス・スポータトリアム定期戦(収容人員4500人)を18カ月連続でソールドアウトにした。

 日本遠征中に急死したデビッドの追悼イベントとしてプロデュースされた“パレード・オブ・チャンピオンズ”は、テキサス・スタジアムに3万2123人の大観衆を動員(1984年5月6日)。

 フリーバーズの出現は、中規模団体だったダラスをアメリカでいちばん新しい人気マーケットに変えた。

 ゴーディはこの前年、スタン・ハンセンのタッグ・パートナーとして初来日し、テリー・ファンクの引退試合に相手をつとめた(1983年=昭和58年8月31日、東京・蔵前国技館)。

 フリーバースは8週間だけWWEに在籍したことがあった(1984年)。ロックバンド志向のヘイズは自主製作盤アルバム“バッドストリートUSA”をWWEでプロモートしようとしたが、ビンス・マクマホンは「南部くさい」とこれを一蹴したとされる。

 ヘイズはWWEとの長期契約継続を希望したいたが、ゴーディはある日、「オレは家に帰る」といって全米ツアーをボイコットし、そのままWWEを退団した。

 ゴーディのレスリング・センスを気に入ったジャイアント馬場がこの22歳の“怪童”を全日本プロレスのレギュラー外国人枠に起用し、これがフリーバーズの実質的なチーム解散につながった。

 ゴーディは、ディープ・サウスと日本を往復しながら1年のうちの約25週間を日本で暮らすようになった。親友ヘイズとのロード・ムービーのような生活はひとまず終わった。

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“第2期”フリーバーズを結成

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