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ファビュラス・フリーバーズ “自由な鳥たち”というロード・ムービー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第58話>



 ゴーディが全日本プロレスをホームリングにするようになってからも、プライベートでは親友ヘイズとの付き合いはずっとつづいた。

 ヘイズは日本を「ナマの魚を食う国」と嫌ったが、ゴーディは「いい人たちばかりだ」とこれに反論した。ヘイズはその後、ジミー・ガービンJimmy Garvinを新パートナーに起用、“第2期”フリーバーズを結成してWCWで活躍した。

 ゴーディはジャンボ鶴田、ハンセンを下して三冠ヘビー級王座を2回獲得し、スティーブ・ウイリアスとの“殺人魚雷コンビ”では2年連続で『世界最強タッグ』に優勝した。

 プロレスラーとしては実力的にも体力的にもピークにあたる20代前半から30代前半までの10年間を全日本プロレスのリングで過ごし、ひとりで街を歩けるくらいの日本語も身につけた。

 ある日、ゴーディがみんなのまえから姿を消してしまうのではないかという漠然とした予感、なにかそういう危なっかしさはずっとあった。

 六本木のナイトクラブで倒れて、心臓が一時停止したことがあった(1990年=平成2年7月)。

 アメリカから東京に向かう国際線のなかで昏睡状態になり、タンカに乗せられたまま飛行機から出てきて、そのまま成田空港から救急病院に搬送され、5日間も意識不明の危篤状態がつづいたこともあった(1993年=平成5年8月)。

 両ヒザ、腰に故障を抱えていたため多量の鎮痛剤を服用していた。このときゴーディはまだ32歳だったが、14歳から酷使してきた肉体は“非常ベル”を鳴らしていた。

 ひょっとしたら、ゴーディは“自由な鳥”の運命みたいなものを悟っていたのかもしれない。

 永遠の眠りにつく6日まえ、ゴーディはテネシー州サディーデイジーの自宅からアラバマ州バーミンガムまで自動車を飛ばしてヘイズに会いにいった。

 1998年に現役生活にピリオドを打ったヘイズは、WWEでプロデューサー業に転向していた。TVショー“スマックダウン”のバックステージで、40歳のゴーディと42歳のヘイズはいっしょに過ごす最後の数分間をシェアした。

 ゴーディが天国へ旅立った7月16日は、ゴーディにとっては兄貴分のような存在だったブルーザー・ブロディの13回めの命日だった。

“自由な鳥”の突然の死は、ブロディとエリック兄弟の“カース=呪い”なのかもしれないし、まったくの偶然かもしれない。

 ヘイズと最後に会った夜、ゴーディは「こんなビッグショーに来るのは、今夜が最後だ」という意味のことを口にしていたという。

 ヘイズは「なにいってんだ、また来いよ」といってゴーディの肩を抱きしめた。これがロード・ムービー“フリーバーズ”のラストシーンだった。

●PROFILE:ファビュラス・フリーバーズ Fabulous Freebirds
マイケル・ヘイズMichael Hayes&テリー・ゴーディTerry Gordy&バディ・ロバーツBuddy Robertsのトリオ。ヘイズ(本名マイケル・セイツ)は1959年3月29日、フロリダ出身。ゴーディは1961年4月27日、テネシー出身。ロバーツ(本名デール・ヘイ)は1948年、カナダ・モントリオール出身。ゴーディは、2001年7月16日、テネシーの自宅で心臓発作で死去。享年40。ロバーツは、2012年11月26日、急性肺炎で死去。享年65。

※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦

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