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全国で盛り上がる「明治150年」…戊辰戦争で“負けた側”の人々にとっては150回忌のようなもの

革命を成就させるには会津の“血”が必要だった

17 松平容保写真(個人蔵、福島県立博物館寄託)

会津藩第9代藩主・松平容保(かたもり)の写真(1865年撮影、個人蔵)「戊辰戦争150年」展より

 歴史作家の星亮一氏は「会津藩は一貫して幕府や朝廷に忠節を尽くしてきました」と語る。 「ところが突然、薩長に天皇を奪われて“朝敵”(朝廷の敵)とされ、さらには主君である徳川家も戦わずに政権を放棄してしまいました。いつの間にか最大の“守旧派勢力”とされてしまったのです」  会津藩が“朝敵”とされることに対しては、当時の諸藩も疑問を持っていたようだ。 「東北諸藩は、東北地方が戦場になることを避けたかったということもあるでしょうが、何とか会津藩が攻撃されないようにと必死に動き回っていたことが古文書からもわかっています。特に仙台藩(宮城県)などは、各方面に嘆願書を書いて会津藩を救おうとしていたようです」(栗原氏)  会津藩も、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、新政府軍に謝罪を申し入れていた。しかし新政府軍は会津藩の謝罪や他藩からのとりなしを一切受け入れず、徹底的に責め潰す方針を貫いた。  このことについて、星氏は「明治維新は薩長による“革命”。それを完成するには、会津の“血”が必要だった」と語る。 「革命を成就させるには、徹底的に倒すべき“旧体制”が必要でした。ところが徳川家は戦わずに政権を放棄してしまった。そこで革命の“生けにえ”に選ばれたのが、これまで幕府や天皇家に忠誠を尽くしてきた会津藩だったのです」(星氏)  その結果、会津藩を救おうとした東北・越後(新潟県)の諸藩による「奥羽越列藩同盟」が新政府軍と各地で激戦を繰り広げることになる。  会津藩は壊滅するまで新政府軍に攻め込まれ、諸説あるものの女性100人以上を含む約3000人が戦死したという。10代の兵士が自刃するという白虎隊の悲劇も起きた。
113 奥羽越列藩同盟旗-2(宮坂考古館蔵)

東北・越後の諸藩により結成された、奥羽越列藩同盟の旗(宮坂考古館蔵)「戊辰戦争150年」展より

 降伏後も新政府軍は遺体の埋葬を許さず、鶴ヶ城の内外で半年にわたって戦死者たちが野ざらしにされたという逸話も残っている。  時代の波に乗れない東北人の「不器用さ」と「誠実さ」が招いた悲劇ともいえる。新しい時代を切り開いた「明治維新」も、「負けた側」の越後・東北地方から見るとまた違った歴史が見えてくる。歴史を一面的に見てはいけないことを、肝に銘じる必要がありそうだ。 ※『週刊SPA!』9月11日発売号掲載記事「明治150周年『敗者からみた』戊辰戦争」より 取材・文・撮影/長岡義幸 北村土龍 写真/福島県立博物館 時事通信社
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【「戊辰戦争150年」展】10月14日(日)まで、福島県立博物館(会津若松市)で開催。9:30~17:00(入館は16:30まで)、毎週月曜日休館(月曜日が祝日の場合は翌日)。9月26日より後期展示となり、一部展示の入れ替えあり。10月26日(金)~12月9日(日)には、展示内容を一部変更して宮城県仙台市博物館でも開催予定。

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表紙の人/中条あやみ

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