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<純烈物語>目に見える形で手応えが得られない……。歌い手・白川裕二郎が味わった苦悩<第18回>

トレーニングに励むなか、襲いかかった「悲劇」

 役者をやっている間は、しがみつこうとする気持ちが強かったと白川は言う。常に、自分の代わりはいくらでもいるというプレッシャーが背後から肩を叩いてくる。一度、一線を引いたら元のポジションに戻れないのはわかっていた。  だからといって、今やっていることで明るい未来が見えているわけでもない。どちらに進んでも怖さを覚えるしかなくなった結果、白川の頭に3つ目の選択肢がチラつく。 「普通に働いた方がいいという考えは、何度も浮かびました。やめるなら今だろうというタイミングも訪れて……おそらく、これがグループではなくソロのプロジェクトだったらやめていました。そもそも、一人だったら僕は潰れていたでしょうね。僕がやめることで、みんなに迷惑がかかってしまう。その意味で、メンバーの存在は本当に大きかった」  そんな白川にとって、一つの武器だったのがスポーツを続けてきたことで培われた努力気質。相撲も筋トレも普段のトレーニングをしないと本番で力が出せないから、コツコツとやれるようになる。 “努力”と書くと、シンドいことを嫌々やるようなイメージが付随してくる。でも、要は自分が欲するものを形にするための過程。そう考えれば、むしろやらないことこそが耐えられなくなる。  スポーツマンとしての経験と姿勢が純烈を続ける上で力になった。発声練習をしなければ声が出ない自分の実力がわかっているから、白川は人一倍ノドのトレーニングに励む。  そうした努力を重ねてきたにもかかわらず、どうしても自分だけ音を外す時があった。ずっと、それは自分がヘタだからと認識していたのだが、思わぬところに原因が見つかった。  2年ほど前、風邪をひいた時に耳の調子がおかしくなったため耳鼻科で診てもらったところ、難聴と言われた。まさかの思いを拭えぬまま、もっと大きな病院で精密検査を受けると「感音性難聴」とわかった。  ある一定の高さになると音が聴こえなくなる先天性の病気――しかも両耳ともだった。白川の頭の中に、聴こえるはずのない衝撃音が鳴り響いた。 撮影/ヤナガワゴーッ!(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxtfacebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売
純烈物語 20-21

「濃厚接触アイドル解散の危機!?」エンタメ界を揺るがしている「コロナ禍」。20年末、3年連続3度目の紅白歌合戦出場を果たした、スーパー銭湯アイドル「純烈」はいかにコロナと戦い、それを乗り越えてきたのか。
白と黒とハッピー~純烈物語

なぜ純烈は復活できたのか?波乱万丈、結成から2度目の紅白まで。今こそ明かされる「純烈物語」。
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