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<純烈物語>衝突しても引きずらない、メンバーとマネジャーの男臭い絆<第45回>

「去年と一昨年は家で寝ることが100日もなかった」

 山本が純烈へ単身赴任して3年目の春、夫人から「東京にいっていい?」と言われた。新学期が始まるタイミングで一人息子とともに上京し、一家3人で暮らすようになるもその頃には仕事も忙しくなっていた。 「去年と一昨年は家で寝ることが年間で100日もなかったぐらいで、当然ながら学校行事には参加しないわ、子どもと遊ぶ時間はないわで不満も出ます。そこはもう、ごめんなと言うしかない。それでも、理解は示してくれています。純烈の成功なくして、親子3人で住めなかったわけですから」  男は顔で笑い、背中で泣く。その涙を見るのは、家族だけなのだ。  酒井一圭同様、家族を犠牲にしてまで打ち込んできたマネジャーという役どころ。それは、芸能畑で育ってこなかった山本だからこその姿勢の中で培われたものだった。 「何をやったらいいかわからないんで、サラリーマンの時から常日頃心がけていた挨拶だけはちゃんとやろうというところからのスタートでした。アホちゃうかと思われるぐらい大きな声で挨拶するだけ。大阪の人間はうるさいねん!と突っ込んでくれますけど、芸能界はなんだこの人?という目で見ている。それでOKなんだなと。このデカい人が純烈のマネジャーかと印象に残ればいいんです。  挨拶って、本人がしているつもりでも相手が認識していなければしていないのと同じですよね。頭を下げて損することはないと思っていますし、ましてやこういう風貌の人間が腰低かったらつかみになるやないですか。感謝の気持ちという部分を大事にするのはメンバーも一番思っていることだと思うし。ホンマそれだけであって、マネジャーとして何をやったというのはないんですよ。周りの人に助けてもらっているだけで」  自分が他の歌手やアーティストのマネジャーとは毛色が違うことを、山本は自覚している。就任して3年間は、同業による横のつながりの飲み会に一度もいったことがなかった。  時間もなければ、自分から話しかけていかないので誘われなかった。また、ほとんどのアーティストの場合、マネジャーは楽屋に入らず外で待機し用がある時だけ呼ばれるのだが、山本はメンバーと常に一緒だ。 「ずっと楽屋にいてアホなことをやって、タレントの前で屁をぶっこいたりガーッと寝ていたり。それが純烈では当たり前になっているんです。僕がほかでマネジャーを経験していたらそうはならなかったでしょうね。僕自身が無知だったから、自然とそうなったんです。会社が従来のマネジャーの仕方を押しつけなかったのも、音楽系のアーティストを扱うのは純烈が初めてだったので、社長にも自分たちのやり方で任せていただけました」  この連載用の取材で楽屋にお邪魔した時、何度となくイスに座ったまま巨体をエビ反らせて爆睡する山本を目撃している。もちろん、それほど疲れているんだろうなという思いなのだが、メンバーが何も言わないのがちょっとした衝撃だった。  たとえば大御所のマネジャーがその前で寝てしまったら、大目玉を食らうこともあるはず。ところが純烈にはそうした空気が一切なかった。  かといって、何もかもが緩い関係かというと違う。そこはプロの現場だから衝突もある。純烈は、仲良しこよしでやっているわけではないのだ。
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「昔は些細なことでメンバーとぶつかっていた」
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(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxtfacebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売

純烈物語 20-21

「濃厚接触アイドル解散の危機!?」エンタメ界を揺るがしている「コロナ禍」。20年末、3年連続3度目の紅白歌合戦出場を果たした、スーパー銭湯アイドル「純烈」はいかにコロナと戦い、それを乗り越えてきたのか。

白と黒とハッピー~純烈物語

なぜ純烈は復活できたのか?波乱万丈、結成から2度目の紅白まで。今こそ明かされる「純烈物語」。

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