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<純烈物語>コロナ禍で白川裕二郎は「僕にとってたった一つの打ち込めるものが純烈であり、ほかのものを求めたらバチが当たる」と言った<第67回>

白川裕二郎

<第67回>ゴールのないマラソンを走る歌い手、白川裕二郎が高揚する大きな一歩

 お客さんの喜ぶ笑顔が見られない――これは、コロナ禍の中ですべてのスポーツ&エンターテインメントに携わる者たちが味わった辛さと思われる。徐々に有観客イベントも再開してきてはいるが依然、飛沫対策で声援やコールは飛ばせぬ状況にある。  本来は声をあげることでストレスを発散し、ライブに参加する醍醐味を味わうものだが、それを禁じられても会場へ足を運ぶのだからファンとはありがたい。今、チケットを買って応援に来てくれる観客は相当のモチベーションを持っているといっていい。  声を出せない代わりに、すべての感情を拍手によって伝えようとする。同じ手を叩く行為なのに、コロナ前と比べると明らかに味わいが違うのだ。  その意味で、以前よりも一緒にライブの空間を作り上げようという意思が伝わってきて、パフォーマーとの距離感は近づいている。有観客によって確かに顔は見られるようになったがその分、本当の意味での楽し気な姿には戻っていない気がする。 「そういったものを気にすることなく楽しめるようになったところが、純烈ライブの再開のタイミング」と、酒井一圭は言っていた。ソーシャルディスタンスを取り、声出し禁止でやるなら今でも可能だろう。  でも、それが純烈のライブかというと違う。ラウンドにて至近距離でふれあいながら、MCに爆笑しながら、そしてメンバーとオーディエンスが一緒に歌いながら……その“らしさ”を発揮できないのであればやるべきではないというのが、リーダーの考えだ。

なくなって分かる価値

「なくなってみてわかる価値ってあるじゃないですか。普通にあることが、どれほど恵まれていたかを、こうした状況になって痛感しますよね。毎日歌って、そのあとに何人ものファンの皆さんと写真を撮って、その中で当たり前に疲れると思うことがあったのが、今ではその疲れさえも楽しかったなあって思えるんです。でも、なんでこんなに嬉しそうにしているんだろうと思う機会が今はまったくない。  この仕事をやらせてもらい、人を見て喜べるのってすごく素敵なことだと思うようになったんです。歌の力や演出の仕方、僕たちの歌を好きと言ってくれる人も、トークが好きだという人も、純烈の雰囲気が好きだと言ってくれる人もいるけど、人が喜んでいる顔を見てそれを仕事にできるのはすごくありがたいものだと。それを、こういうことになって改めて思わされました」  人前で何かを表現するとは、そういうものだと白川裕二郎は考える。誰かに喜んでもらいたいと思っても、それができる人間は限られる。夢破れ、消えていく者は星の数ほどいる。  その使命を全うしたいとの思いで純烈を続けてきた。それが、受け手側との直接的なかかわりを遮断されるようになるなど、まったくの想定外だった。
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たった一つ、打ち込めるものが純烈
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