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星野仙一、落合博満が惚れ込んだ甲子園のスター。「潰された?」の問いに本人は

ジュニアオールスターで150キロの豪腕が唸る

上原晃

治療をされる側から“する側”になった上原さん。元アスリートだからこそわかる、体の悩みに日々向き合っている

 高校時代と同様、プロでも全国デビューは鮮烈だった。87年中日からドラフト3位で指名され入団した上原は、ウエスタン・リーグで7連勝し、ジュニアオールスターが全国初のお披露目となった。1対0で全ウエスタン1点リード、8回から上原がマウンドに上がる。いきなり145キロ超のストレートで観客を沸かせる。当時は150キロのスピードボールなどめったに出ない時代。今は150キロ以上投げるピッチャーはゴロゴロいるが、1980年代は今と違ってスピードガンの精度も悪く、140キロが速球投手のひとつの目安になっていた。  このとき全イースタンでは、同期入団のロッテの伊良部秀輝(故人)が投げており、最速は上原148キロ、伊良部147キロと上原のほうが1キロ勝っていた。球場内は興奮のる堝と化し、「150キロ」コールが東京ドーム内をこだまする。ジュニアオールスターでMVPを獲得した上原は、全身バネのような身体から繰り出す150キロの剛速球をひっさげて、1987年7月30日ヤクルト戦で一軍デビューを果たしたのであった。  7回から登板し、わずか4球で抑え、8回のクリーンアップにはストレートを詰まらせての零封。高校時代の甲子園のデビュー戦とはうって変わって、プロ初陣は18歳という勢いに勝るパワーで鮮やかに飾った。新聞には「沖縄の星」という見出しが堂々と躍る。上原がプロ入りする前に、沖縄出身者のピッチャーが10人プロ入りしていたが、技巧派の安仁屋宗八(元・広島 通算119勝)しか成績を残しておらず、本格派は誰も大成していなかった。 「プロに入って沖縄出身というのは常に頭にあって意識はしていた。どこに行っても沖縄人だからね。やはり沖縄という環境で生まれ育って、のんびりしている部分は否めない。だからってそれが悪いとも思っていない。いい意味で“鈍感力”だったらよかったんだけどね。もう今の時代、沖縄人だからと一括りできないから。一年目は1点差で投げて流れを変えるというのが星野さんの戦略だったと思う。僕が投げると9連勝、不敗神話ができて、ファンの間ではそれが強烈に記憶に残っているんじゃないかな」

中日優勝の「Vの使者」となる

 中日ファンからすると、87年の上原の活躍はいまだに鮮烈に脳裏に残っている。まだセットアッパーという名前がない時代、中抑えの上原が投げて、抑えの郭源治が締めくくるという中日のダブルストッパーの必勝パターンが確立していた。フォームはお世辞にも綺麗とは言えないが、若馬のように弾ける身体から弾丸を繰り出すような大きな腕の振り、150キロの剛速球が小気味よいテンポで投げ出される。テレビの画面からでも躍動感溢れるピッチングスタイルは圧巻のパフォーマンスだった。 「最終戦まで防御率1点台だったんだけど、優勝後の消化試合、星野さんはこの年活躍したピッチャーを全員投げさせ、ヤクルト戦でスリーラン打たれて2点台になってしまったのよ」  上原は爽やかな顔をしながらも悔しそうに話す。この年、中日は首位から8ゲーム差をひっくり返して逆転優勝を飾った。ペナントレースを制覇した原動力として2人の高卒新人ルーキー、ドラフト1位の立浪和義と同じく3位の上原晃の活躍なしでは語れない。永いプロ野球史を紐といても同チームで2人の高卒ルーキーが活躍し優勝したのはあまり例がないことだ。上原はあの甲子園の「悲運の投手」から若きヤングドラゴンズ「Vへの使者」となった。
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