更新日:2021年09月06日 13:07
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ソニー元副社長・盛田氏がかたる戦争「特攻隊をめざす軍国少年でした」 

希望に燃える、軍国少年だった

和久井:お母さまが反対されたのは、なぜですか? 盛田:どうせ行くなら、江田島にある海軍兵学校にしろ、と。将来、海軍大将になるなら海軍兵学校に行っておかないといけないから。戦争に行くなら、やっぱり偉くなってほしかったんでしょう。予科練の隊員なんていう、単なる飛行機乗りになるなら反対だと。 お袋はたとえ自分の息子が戦争に行くといっても、やっぱり将来のことを考えてるんですよ。だけど「そんな将来なんかもうないよ。下手したら日本が潰つぶれちゃう、やられちゃうよ。だから体張って日本を守らなきゃいけない」と、私は思っていたんです。そうやってお袋の反対を押し切りました。
予科練

予科練生(1942年撮影、パブリックドメイン)

和久井:以前、「国を守るために迷いなく志願した」というお話を聞いて、ものすごく驚きました。 盛田:みんなそのころのことを悲惨だ悲惨だっていいますけど、当時は、悲惨とは思わなかったんですよ。希望がはっきりしていましたからね。 今の子どもたちに、「将来何になりたい?」と聞くと、「さあ…?」なんていう子も多いでしょう?それに比べると、私にははっきりとした目標があった。精神的には極めて安定していて、「夢に向かってまっしぐら」って感じだったんですよ。軍国少年だったんです。

日本と家族を守りたい、と16歳で志願

和久井:盛田さんには、自分がなんとかしたら戦局が変わるかもしれない、という思いはあったのですか? 盛田:変わるか変わらないかはわからないけれど、我々が守らなきゃ、ほかに守る人がいないんだから。日本を守る、家族を守ることが一番大事だった。我が身を捨ててでも守りたいと思ってましたよ。 和久井:戦争末期に将校が各地の学生たちを勧誘に行ったという記録がありました。 盛田:「みな来てくれ!」って檄を飛ばされて、「そりゃそうだ、よし行ってやろう!」って奮い立たされた。中学5年生、16歳のときです。
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玉音放送を聴いても…
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ライター・編集、少女マンガ研究家。スタッフ全員が何らかの障害を持つ会社「合同会社ブラインドライターズ」代表。著書に著名人の戦争体験をまとめた『わたしたちもみんな子どもだった 戦争が日常だった私たちの体験記』(ハツガサ)などがある

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