更新日:2021年09月06日 13:07
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ソニー元副社長・盛田氏がかたる戦争「特攻隊をめざす軍国少年でした」 

僕にとってソニーは町工場みたいなもの

和久井:もうそんなにたくさん社員がいたんですか? 盛田:うん、6年目でね。1945年に終戦になって、1946年に東通工ができた。スタート時は、25、6人くらいの会社だったと思うけれど、それから3倍近い人数になってたかな。 和久井:以前、盛田さんが「入社したときソニーはほんの小さな会社だったから、僕にとっては今でも町工場みたいなものだ」とおっしゃっていて、驚きました。バブル景気(1986年12月〜1991年2月の日本の好景気)を知る人には、ソニーは憧れの大企業でしたから。 盛田:事務所なんてなかったですからね。会社そのものが工場で、そこで作ってたんですから。

軍国少年、焼け野原、世界のソニー

和久井:戦後の高度経済成長期に日本が変わっていく様をずっと見ていらしたわけですよね。 盛田:そうですね。軍国主義の日本で育って、戦争を体験して、コテンパンにやられちゃった戦後の焼け野原を横目に学校に行って、ソニーに入って……それで急成長して世界のソニーになって。おもしろかったですね。今の方たちにはできない経歴ですね。 和久井:東京から富士山がまるまる見えだったぐらい焼けて何もなくなった状態から、ものすごい勢いで復興したんですね。 盛田:終戦後に都会の人がなぜ持ちこたえられたかというと、物を貯めておくことが一番大事だったからですね。当時は「金持ちになるというのはお蔵を建てること」というひとつのメジャーがあったんです。とにかくなんでも貯めて、それで「これだけ自分のものがある」というのが価値だった。 だから物のない時代に、みんな貯めてあった着物や何かを持って田舎へ行って、お米や野菜に替えてもらった。それでみんな生き延びたわけですね。今はみんなすぐ捨てますし、そもそも物を持たない時代になったので、大違いですよね。 =========== 『わたしたちもみんな子どもだった ~戦争が日常だった私たちの体験記~』では、ほかに茶道裏千家前家元の千玄室氏、元日本ボクシング連盟会長の山根明氏、日本を代表する元テニス選手の宮城淳氏、世界最高齢薬剤師としてギネスブックにも載っている比留間榮子氏など、総勢18名の戦中・戦後体験をまとめている。それぞれの場所で聴いた「玉音放送」は、いったいどんなふうに響いたのか。 <文/和久井香菜子>
ライター・編集、少女マンガ研究家。スタッフ全員が何らかの障害を持つ会社「合同会社ブラインドライターズ」代表。著書に著名人の戦争体験をまとめた『わたしたちもみんな子どもだった 戦争が日常だった私たちの体験記』(ハツガサ)などがある
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