更新日:2021年09月06日 13:07
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ソニー元副社長・盛田氏がかたる戦争「特攻隊をめざす軍国少年でした」 

玉音放送を聴いても、「おお、そうか」ぐらい

和久井:それから8月15日に終戦を迎えました。 盛田:「玉音放送がある」と聞いたのは、突然のことでしたね。あのころ天皇陛下っていうのは、神様の一歩手前の存在で、人間ではないと思っていましたから、その声なんて、誰も聞いたことないわけですよ。その人が、ラジオで何か言うっていうのはあの当時としては大変なことでね。 「へえ」ってみんな集まって、うやうやしく聴いたんだけれども、ラジオの電波もよくないもんだから、聴き終わっても「おい今なんだった?何言ったんだ?あれは」というのが正直なところ。そしたら誰かが、「戦争が終わったらしいぞ」って言うから、「おお、そうか」ってなもんですよね。玉音放送を聴いて理解して、涙して土下座して泣くなんてことは、全然なかったですよ。 和久井:多くの方は、玉音放送は「何やらわからなかった」とおっしゃいます。内容ははっきりしなかったとはいえ、聴いたとき、どう思われましたか? 盛田:よく覚えてないですけど、特に大きな感情の変化はなかったですね。「どうなってるんだ?」という気持ちと、戦争が終わったと聞いてからは「もう飛行機に乗れないかもしれないな」という気持ちが強かった。 当時は、アメリカ軍が上陸してきたら何をされるかわかりませんでしたから……特にパイロットだと知られたら、殺されるかもしれない。だから飛行帽とか飛行服といったパイロットらしいものはみんな捨てていけと言われました。

兄が創った東通工(現ソニー)に入社

和久井:ご兄弟で大阪大学に早稲田大学、東京工業大学。お母さまは海軍兵学校をすすめるなど、教育熱心な方だったんだなという印象を受けます。その後、お兄様が創設したソニーには、どのような経緯で入社されたんですか? 盛田:親父は一番上の兄貴が帰ったら酒造りをやらせようと思っていたのに、ソニー(当時の東京通信工業株式会社=東通工)を創ってしまった。それで実家は2番目の兄貴が継ぐことになったんです。私は三男ですから、親父はどうでもいいと思っていたらしいんですよ。じゃあ私はそのまま東京にいたいと思って、「兄貴のところへ行く!」と言って、1951年に東通工に入りました。社員番号は70番台でしたね。
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僕にとってソニーは町工場みたいなもの
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ライター・編集、少女マンガ研究家。スタッフ全員が何らかの障害を持つ会社「合同会社ブラインドライターズ」代表。著書に著名人の戦争体験をまとめた『わたしたちもみんな子どもだった 戦争が日常だった私たちの体験記』(ハツガサ)などがある

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