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川相昌弘が語る、引退試合から数週間後の巨人退団&引退撤回の真相

「原さんの電撃辞任があったことで、自分はどうすべきか考えた」

川相昌弘

川相昌弘氏

 現役時代、川相にはひとつの目標があった。たとえレギュラーでなくても「40歳で二遊間を守れる内野手」だ。当時、40歳で二遊間を守れる選手の前例がなかっただけに、挑戦したいという思いが胸の奥底にあった。  しかし’03年のシーズン終盤、原辰徳監督から内々に来季の一軍コーチ就任を打診され、熟考した上で引退を決意。だがその数週間後、原監督の辞任が発表される。記者会見の場で巨人側は「読売グループ内の人事異動」という前代未聞の屁理屈を宣い、物議を醸した。とにかく、急転直下の原監督辞任により一番割を食ったのが川相である。 「正直、来季のコーチ就任の話は原さんと僕との間での口約束。原さんが急に監督を辞めることになって、自分はどうなるのかと不安が募りました。そんなドタバタの最中に、『こんなことになるなら来季もチャレンジしたかった』という思いが湧いてきたんです。原さんの電撃辞任があったことで、もう一度自分はどうすべきかと考えるようになりました」  一度は引退を決意していた川相。決意の後はスパッと割り切り、来季務める予定の三塁ベースコーチの仕事を勉強するために他球場での試合を視察するなど、現役生活への未練を完全に断ち切っていた。なのに……だ。一度火がついた現役続行への思いは日々膨れ上がっていくばかりだった。

巨人を退団して自由契約を求めた川相

 その後、次期監督の堀内恒夫から正式に二軍コーチの話があったが、それを固辞。現役続行を求めた。しかし、引退試合までした男が「やっぱり続けます」では示しがつかないのか、巨人側はあくまでも引退しての二軍コーチ就任を川相に要望。結果として、川相は巨人を退団して現役続行を模索すべく、球団に自由契約を求めた。 「こういうゴタゴタの中で残るのではなく、一度退いてから次のことを考えたほうがいいんじゃないかと思ったんです」  生え抜きで21年間巨人軍に在籍し、用意されたコーチ就任の話を蹴って自由契約を求めたのは、100年近い巨人軍の歴史の中で川相ただひとりである。  世間のイメージとして、巨人といえばFAした選手をカネにあかして獲得するイメージがある。もちろん、プロである以上、年俸の高さは自分の評価に値するため移籍条件の最重要事項でもある。しかし巨人はカネだけでなく、引退後の手厚いケアも契約に明記しているとも言われている。
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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