更新日:2021年07月26日 15:37
スポーツ

名将・広岡達朗が誓った“巨人への復讐”。最弱球団を率いて2年半で達成

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治との確執が原因で巨人を退団した広岡達朗。その後の信念と軌跡に迫る。 【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます

因縁の巨人を倒し、監督オファーさえも蹴った広岡の“信念”

広岡達朗

広岡達朗氏

 ’66年、川上哲治との確執が原因で引退を余儀なくされた広岡は、その後も闘志を燃やし続けた。MLBが「メジャーリーグ」ではなくまだ「大リーグ」と呼ばれていた時代に、本場の野球を観て勉強すべく動きだしたのだ。日本人選手がメジャーを舞台に活躍し始める30年近く前のことだ。 「1ドルが360円の時代、2月中旬から6月下旬までの4か月強を自費でアメリカに滞在した。(母校の)早稲田大の知り合いに英語を習い、なんとか日常会話程度をマスターして一人で渡米。途中、お金がなくなったから送ってもらったこともあったな。ベロビーチで巨人がキャンプしていたから視察に行くと、突然練習をやめてしまうんだ。『広岡に見せると他のチームに筒抜けになる』と、まるでスパイ扱い。このときは悔しくてたまらなかった……」  かつての古巣へ陣中見舞いという形で顔を出しただけなのに、知らぬ間に裏切り者というレッテルを貼られ、忌み嫌われていることを知った広岡はひどく落胆した。 「すべてはあいつの仕業……」  ホテルのベッドに横たわっても、憎き“打撃の神様”の顔しか浮かんでこない。自分を認めさせるためには巨人を倒すしかない。このとき、広岡は巨人への復讐を胸に邁進することを誓った。

ヤクルト、西武の監督として巨人と……

「’70年、根本(陸夫)さんに呼ばれて、広島東洋カープのコーチを2年間務めさせてもらった。この年は黒い霧事件や不正行為やらで大変な年だったな。このときのカープで、選手を育てるということの意味と意義を学んだ。そして’74年にはヤクルトのコーチに呼ばれて、’76年シーズン途中から代理監督に。当時の松園オーナーは偉かったよ。『自前の選手たちを育ててくれ』と言って惜しみなく協力してくれた」  広岡が指導者としての花を咲かせたのは、監督としてヤクルトを球団史上初の日本一に導いた’78年のことだった。“最弱”と揶揄されていた当時のヤクルトの監督を引き受け、わずか2年半後の出来事だ。しかも、後輩だった長嶋茂雄が監督を務め、リーグ2連覇中だった巨人を倒しての快挙。さらには“史上最強”と謳われた日本シリーズ3連覇中の阪急ブレーブスを破っての日本一だから、余計に価値がある。
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近鉄から監督のオファー
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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