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川相昌弘が語る、引退試合から数週間後の巨人退団&引退撤回の真相

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、ファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?今週からは、犠打の世界記録をもつ川相昌弘の信念に迫る。

実際は誰よりも骨太で、豪胆な男

川相昌弘 「自己犠牲」ほど尊いものはないと言われる。その精神はあらゆる宗教で重要視され、キリスト教では「自己犠牲=愛」と解釈されるほど気高い行為だ。団体競技においても、自己犠牲を強いられる場面が多々ある。そんな自己犠牲が明確に数値化されるスポーツはただひとつ、野球だけだ。 「犠打533という世界記録がありますが、プライドもなにも、自分の役割を全うしただけですから」  川相昌弘は平然とそう答えた。しかし、この言葉を額面通りに受け取ることはできなかった。この境地に至るまでの葛藤を想像すると、川相が言う“プライド”の意味を考えずにはいられなかった。  堅実な守備に、職人技と評されたバント。野球ファンなら誰しも、そんなフレーズとともに川相を思い出すはずだ。もう少し突っ込んだ言い方をするならば、強打者揃いの巨人打線の繫ぎ役、脇役的存在……。しかし、実際の川相は誰よりも骨太で、主役に劣らない豪胆な男だということはあまり知られていない。

「引退を決断するのはすごく苦しかった」

 川相は’83年に岡山南高からドラフト4位で巨人に入団。’89年から’97年までの9年間ショートのレギュラーを張り、’03年まで巨人の戦力として尽力した。’96年からは巨人の選手会長を3年間務め、選手側の要望を球団と交渉するなど、非常に責任感が強く誰にも物怖じすることはなかった。  さらに、見かけと違って武闘派として鳴らし、試合中ムシャクシャしたことがあるとベンチ裏の壁やロッカーをガンガン蹴りまくり、背番号0にちなんで「台風ゼロ号」と陰で囁かれたりもした。若い頃から老け顔だったため“ジイ”の愛称で先輩後輩を問わず慕われ、信頼も大きかった。  誰もが、川相は巨人一筋で終わる選手だと思っていた。しかし39歳で迎えた’03年、一度は引退を発表し引退試合までやった川相は、球団に自由契約を申し出た。まさに青天の霹靂だった。 「引退を決断するのはすごく苦しかった。でも、あの年は犠打の世界記録も作ったので、こういう年に引退するものなんだろうと自分でも思っていました」
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「原さんの電撃辞任があったことで、自分はどうすべきか考えた」
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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