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川相昌弘が“電撃退団”の8年後、巨人にコーチとして舞い戻ったワケ

引き際だけは誰にも指図されず自分で決めたい

川相昌弘

中日移籍1年目、40歳を目前に控えた’04年9月10日の広島戦でサヨナラ打を放った川相。移籍初年度は80試合に出場

「それでも巨人に自由契約を申し入れたのは、そうしないと自分の気が収まらなかったという部分が大きいです。もちろん、一生巨人に戻れない覚悟で出ていきました」  プロ野球が誕生しておよそ90年、引退を自分の意思だけで決められた選手はほんのひと握りだったと言っていい。どんなに現役にこだわっても、球団からの肩叩き、周囲からの圧力によって退かざるを得ないのが実情だ。  そんな世界だからこそ川相は「自らの引き際は誰にも指図されずに自分で決めたい」という強い思いと、「40歳まで二遊間を守れる選手でありたい」という捨てきれない信念が重なり合い、21年間在籍した巨人を退団する決心をする。  そんな川相の決心に呼応したのが、中日ドラゴンズの監督に就任したばかりの落合博満だった。  ’03年10月、新聞紙上に「川相に興味がある」という落合のコメントが掲載された。それを知った川相は落合に電話をし、「とりあえず沖縄に来てくれ」と秋季キャンプ参加の話を受ける。

移籍から電撃退団まで

「入団は、キャンプに参加する時点で決まっていたと思います。要は、落合さんは僕が巨人をやめてくる覚悟を見たかったんだと思います」  落合も’94年にFA移籍し、巨人に在籍した過去を持つ。当時の落合は何から何まで特別待遇だった。日本プロ野球史上唯一となる三度の三冠王を獲得していた落合に、ほとんどの選手が恐れ多くて気軽に話しかけられなかった中、川相だけは分け隔てなく落合と接したという。そんな縁もあってか、川相は快く中日へ移籍する。 「野球をやるだけだったらどこに行っても大きく変わらない。ただ、球団内でのルールはちょっとずつ変わります。たとえば巨人には昔から門限があります。ずっと0時が門限だったのを、僕が選手会長の時に交渉して1時まで延ばしたんです。長らく交渉して、ようやく1時間延びたという感じですから。でも、中日に行ったら『20歳以上は自分で責任を持て』ということで門限はなし。そんな細かな違いは新鮮でしたね」  高校卒業以来、21年間同じ組織に身を置いてきた男が飛び込んだ、40歳での新天地。中日では若手に手本を示す形でプレーをし、3年間で二度のリーグ優勝に貢献。’06年、今度は「やりきった」という思いとともに現役を引退した。翌年からは中日で一軍内野守備走塁コーチを務め、’10年には二軍監督に就任。しかし、同年9月に中日を電撃退団する。
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巨人へ8年ぶりに復帰
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