仕事がデキすぎた男の悲劇。江戸の豪商・銭屋五兵衛は嫉妬によるデマで獄中死
仕事をバリバリこなして、結果をきちんと出す。社会人になれば、そんなビジネスマンに憧れるものだが、仕事がデキすぎたがゆえに人生につまずくことがある。
泣ける日本史』(文響社)では、理不尽な運命に翻弄された19人の歴史人物の物語を書いた。そのなかでも、特にデキるビジネスマンが陥りやすい悲劇として、江戸の豪商・銭屋五兵衛をピックアップしてお届けしたい。
銭屋五兵衛は安永2年(1773)に商屋の長男として、宮腰(みやのこし)に生まれた。宮腰は、現在の石川県金沢市に位置する北陸の湊町だ。
時代としては、積極的な経済政策を進める田沼意次が老中に就任し、「江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれた平賀源内が名を馳せていた頃である。有力商人が大活躍する真っただ中で、五兵衛は生まれ落ちたといってよいだろう。
五兵衛の祖父は有能な材木商人だった。ただ、優秀なビジネスマンにありがちだが、何かと先走りがちだったらしい。子どもができないからと養子をもらって家督を継がせたあとに、実子が生まれている。その子こそ、五兵衛の父にあたる弥吉郎である。
養子がいたために本家を相続できなかった弥吉郎は、自力で商売を始めなければならなかった。醬油製造、質屋、古着屋、船商売……。必要に迫られて次々と事業を始めた父のパイオニア精神を、五兵衛は受け継いだのだろう。五兵衛は17歳で家督を継ぐと、26歳のときに宮腰の中心地で呉服屋を開業。仕入れから販売まで自ら行いながら、昼夜問わず働き、繁盛店に成長させている。
売上は年々増加して経営は好調だったが、時勢が変わらぬうちにと、37歳のときに店じまいを決意。在庫を売り払って財を築くと、次の商売へと目を向け始める。デキる男、五兵衛が目をつけたのは、海運業だった。
新しいビジネスは、ひょんなところにきっかけがあったりする。呉服屋から撤退したあと、五兵衛は質屋をやりながら、次の一手を考えていた。ある日、質草として中古船を手に入れることになった。しかし、なかなかなか買い手がつかないので、父に相談してみたところ、こんなアドバイスを受けた。
「ほしい人がいないかどうか、町のみんなに見せてみたらどうだ?」
せっかくお披露目会をするのならば……と、五兵衛が船を修理していると、不思議と愛着がわいてきた。試しに船で商売米を運搬してみたならば、意外な利益が出て驚いた。
ちょうど、その頃に父が他界したことも、新しい事業に進む後押しになったようだ。船の事業はもともと、父のアドバイスがきっかけとなって始めたこと。父もかつて手を出したという海運業を自分もやってみようと、五兵衛は思い至ったのである。
五兵衛は船を使って、加賀の米を蝦夷地で売り、蝦夷からは材木や海産物を運ぶというビジネスで成功。50代後半に差し掛かった頃には、本格的な船持ちとなり、海運業に本腰を入れる。出た利益を元手に船を次々に購入し、取引港を松前、津軽、酒田、越前、大阪と広げていく。
江戸を代表する大海運業者となった五兵衛。その活躍ぶりから「海の百万石」とも呼ばれた。五兵衛は一代にして、海運業で巨万の富を築いたのである。
拙著『
繁盛店にも見切りをつける
海運業で巨万の富を手に入れる
伝記作家、偉人研究家、名言収集家。1979年兵庫県生まれ。同志社大学卒。業界誌編集長を経て、2020年に独立して執筆業に専念。『偉人名言迷言事典』『逃げまくった文豪たち』『10分で世界が広がる 15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』など著作多数。『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』は累計20万部を突破し、ベストセラーとなっている。名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。最新刊は『「神回答」大全 人生のピンチを乗り切る著名人の最強アンサー100』。
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