お金

現代人も四苦八苦している経済対策。江戸時代の失敗から解決のヒントを学ぶ

経済の発展が進むなか、断行された倹約令。その裏には…

実は、この水野が行った倹約令には物価対策とは別の意図もあった。それは武士の窮乏と商人の台頭によって動揺しつつある、身分制を再強化するというものだ。 天保の改革の約50年前に行われた寛政の改革(1787)の場合、老中の松平定信は、商人の生活にも配慮し、極端な倹約令を出すことはなかった。ところが水野忠邦は、徹底的な贅沢取り締まり、質素倹約の強制を断行。たとえ江戸の経済が衰退し、商人が困窮しても、武士の生活さえ良くなれば構わない、という極論さえ唱えている。 結果、倹約を強いられた庶民の生活はいまで言うデフレ状態に陥り、江戸の経済は停滞。それに伴い、治安の悪化を招いた。 もはや万民を統治する幕府というタテマエを放棄し、武士階級の利益のみを追求する姿勢は為政者として非常に問題があると言わざるをえない。 抜本的な経済対策が必要な状況で、ビジネス感覚に乏しい政治家や官僚がトップに立つと、ある一定の団体や人々にのみ利益のある政策を推し進めてしまう。水野はそんなリーダーの代表例なのかもしれない。政策を主導する面々が、国民全体をマクロな視点で捉えているのかは、我々も見定める必要があるだろう。 水野がここまで強硬な姿勢を貫いた裏には、寛政期に比べ、天保期の幕府がより一層追い込まれていたという状況も見え隠れする。 次回はこの点についても、詳しく解説していこう。

今週のフルネス

経済政策をお上に任せっきりにすると、弱い人々から犠牲を強いられる
1980年、東京都生まれ。日本中世史を専門とする歴史学者。’16年に刊行された『応仁の乱‐戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)は、48万部を超えるベストセラーとなり、歴史学ブームの火つけ役に
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【お詫びと訂正】
週刊SPA!8月30日9月6日合併号の「日本史フルネス」において、「寛政の改革(1987)」という表記がございましたが、正しくは「寛政の改革(1787)」です。大変失礼致しました。
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