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「お前みたいなのが生活保護を受ける権利があるわけないだろ」闘病中のシングルマザーが絶望した一言

母と向き合うつもりが、「記憶にない」と言われ…

 高校生になったころ、丘咲氏は摂食障害になり、現在も完治はしていない。 「あるとき突然、食べることができなくなりました。過去にも心身症などで入院した経験がありますが、気持ちは元気なつもりでも、恒常的に家族関係に悩んできたため精神はボロボロだったのだと思います。ピーク時は体重が23キロまで落ち込み、生命活動も危ぶまれました」  渦中にいた丘咲氏が、物心ついたときから続く“しんどさ”の正体に向き合えたきっかけは難病による痛みだった。 「高校生のころから、脊髄のあたりに痛みを感じるようになりました。20代半ばになってから、数多くの医療機関を受診してやっとそれが脊髄の希少難病だとわかるのですが、当時は身体に異常が見当たらないために精神科を受診させられることがありました。そこで出会ったカウンセラーのおかげで、摂食障害が家族関係に起因していることに気づくことができました。  以前も母との関係を何とかしなければならないと思って、自分の気持ちを彼女に伝えたことはありました。しかし過去の虐待の話になると、母は『記憶にない』と白を切りました。  カウンセラーからの『お母さんに話したいことを伝える機会を作ろう』という提案で、母との対話を試みましたが、母は部屋を無言で出て行ってしまいました。自らの加害に向き合わない母をみて、アプローチしても傷つくだけだとはっきり自覚しました」

病状が進行し、寝たきり状態に…

 23歳で結婚をし、出産を経てシングルマザーとなった丘咲氏は、脊髄の希少難病によって、徐々に立つことすらままならなくなっていく。一日の大半を寝た状態で過ごさざるを得ないこともあった。手術によってある程度治癒するものの、そこに至るまでの日々は険しいものだった。  現在では当時より症状が和らぎ、少しの距離であれば補助具なしに歩くことができているものの、常に痛みと痺れにつきまとわれる生活は変わっていない。病気の発症当時、手術に至るまで心労は絶えなかった。 「病気が猛威を奮い始めた20代後半、介護ヘルパーの資格を持つ母に介助をお願いすることがありました。しかしかけられた言葉は、『車椅子なんてみっともないから外に出ないで』『近所の人には見られないようにして』というものでした。  30歳に差し掛かって生活保護を受けるようになると、母には助けを求めなくなりました。そのころの私は、自力でトイレに行くこともできず、尿も便も垂れ流し。それでも、母に頼るよりは気が楽でした。買い物もほとんどはネットスーパーを使っていましたが、まだ幼かった子どもにお使いを頼むこともあったので、いわゆるヤングケアラーだったと思います。  困ったことは多数ありますが、生活保護受給者は原則として車の所有が認められていないのが痛手でした。当時、両足が不自由な方でも運転できる仕様に改造した車を所有していましたが、これも手放さざるを得ず、最終的には通院もできなくなってしまったのです」
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ナイフを握りしめ「1時間ほど自動ドアの前に立っていた」
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ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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