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「もともとは俳優志望」のホンジャマカ石塚。お笑いに対して真剣に向き合う動機になった「マネージャーの一言」

最初はお笑いを“ステップのひとつ”だと考えていた

ーーそこから、どうやってお笑いの道に? 石塚:20歳で劇団ひまわりに入りました。芝居がうまいのに、なかなか売れない人が多いんですよ。一方でお笑いは、舞台でちょっとでもウケたら世間が放っておかない時代でした。ラ・ママ(渋谷のライブハウス)でウケてた芸人が、あっという間にテレビに出ていたり。だからこそ、俳優として名前を知ってもらうために、まずお笑いをやってみたいと思っていました。 ーーなんだか遠回りにも感じますが。 石塚:当時、いかりや長介さん、ハナ肇さん、伊東四朗さんたちは、すでに俳優としての地位を確立していましたけど、もともと人を笑わせる仕事でしたよね。当然、笑ってもらうのも好きだったので、入り口を変えて、まずは世間に発見してもらおうという気持ちゆえです。 ーーしかし、劇団に所属していると、気軽に転身もできなさそうですが。 石塚:劇団の芝居の中で、シリアスな場面でも人を笑わせようとするクセが、出ちゃってたみたいなんです。それで、劇団のマネージャーに『人を笑わせて怒られる世界より、褒められる世界の方がいいんじゃない?』と言われて、お笑いの道に進むことに決めたんです。 ーーマネージャーさんは、石塚さんの才能を見抜いていたんですね。 石塚:いえ、後になって冷静に考えたら、『ウチから出て行け』ってことをオブラートに包んで言ってくれただけなんだろうなと気づきましたけどね(笑)。

正解もわからず、ガムシャラだった若手時代

石塚英彦さん

大変ではあったものの、同じくらい楽しかったとほほを緩ませる

ーー当時のワタナベエンターテインメントにはお笑い部門がなかったんですよね。 石塚:そうなんです。「恵スタジオ」で二人で試行錯誤しながらネタを作っていました。スタジオといいつつ、ただの恵の家なんですけど(笑)、しかも、ネタを見せる相手はお笑いの作家ではない方。あのときは何が正解かわからず、とにかくガムシャラでしたね。 ーー今は多くの事務所に養成所がありますね。そんな環境下にある今の若手芸人は恵まれていると思いますか? 石塚:一概に言えませんが、笑いを「教わるもの」として身につけると、若手時代に必要なガツガツした気持ちが作れるのかなという疑問はありますね。僕らは、現場の肌感覚で吸収してきたので。 ーー教わってウケたとしても半分は先生の功績ですよね。一方で自分たちで試行錯誤した結果ウケたなら、自分の成果として喜べそうです。 石塚:僕は教わったという経験がないから、どちらがいいかはわかりません。ただ、僕らの時代は大変だったけど、周りの芸人たちと同じ方向を目指す一体感があって楽しかったことは間違いないですね。
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“コンテスト後”の芸人人生のほうが長いからこそ…
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Boogie the マッハモータースのドラマーとして、NHK「大!天才てれびくん」の主題歌を担当し、サエキけんぞうや野宮真貴らのバックバンドも務める。またBS朝日「世界の名画」をはじめ、放送作家としても活動し、Webサイト「世界の美術館」での美術コラムやニュースサイト「TABLO」での珍スポット連載を執筆。そのほか、旅行会社などで仏像解説も。

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