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大学中退してパチプロに…50歳男性の「その後の人生」。幸せな同級生たちが“見えないプレッシャー”に…

 朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。  今回は前回に引き続き、大学を中退してパチプロとして生きてきたという武井憲二さん(仮名・50歳)が歩んできた壮絶な人生の後編をお届けする。
パチンコ

写真はイメージです(以下同)

 ビギナーズラックをきっかけにパチンコの世界にのめり込み、大学を中退して“プロ”の道へと進んだ武井さん。クギを読み、羽根モノで稼ぐ日々を送りながらも、どこか心に引っかかるものがあったという。そんな彼の人生は、ある“再会”をきっかけに大きく動き出す——。

羽根モノが減り、不動産屋でバイトを始める

 時代は連チャン機に規制が入り、CR機へと移行が始まった過渡期。武井さんのスタイルにも変化があった。 「羽根モノのリリースが減ったことと、CR機の導入で羽根モノの島が減ったこともあって、打つスタイルを変えざるを得なくなったんです。羽根モノだけでなく、一般電役や現金デジパチも打つようになりました。それと、両親と大学を辞める際に『ちゃんと働く』と約束したので、不動産会社で事務のバイトを週3〜4日やるようになりました」  アルバイトの日は夕方からホールに行って主に羽根モノを打ち、アルバイトのない日は朝からデジパチや一般電役を終日打つというスタイルが定着し、二足のわらじをうまく履きこなしたと武井さんは振り返る。 「パチンコの収支が月に25万〜30万円くらいあって、不動産屋のバイト代が15万円くらい。バイト代はほとんど手を付けず貯金してました。そういう生活が2年くらい続いたんですが、ある日、不動産屋の社長から『社員にならないか?』と誘いを受けまして。不動産屋はすごくいい雰囲気で、バカ大学を中退した私を社員登用までしてくれるなんて、こんなイイ話はない。でも、なんか自分でその頃の生活に割りきりがつかなかったというか……モヤモヤをずっと抱えていました。 そんなとき偶然、名古屋駅で中学時代のS先輩に会ったんです。その人は超が付くようなヤンキーだったんですが、黒く日焼けしてでっかいリュック背負って歩いてきて『武井じゃねぇ?』って。金髪でソリ込み入ったヤンキーだったのに、ロン毛を後ろで縛ってて、最初は誰?って感じでした(笑)」

中学時代の先輩との再会が運命を変える

 聞けば、S先輩はバックパッカーとして世界各地を放浪して、ちょうど帰国したばかりだったのであった。 「暴走族にも入るような人が、バックパッカーになって世界を放浪してきたなんて、そんなことあんの?って思いました(笑)。そのまま、近くで飲んでいろいろ話を聞いたんですが、その話がもう面白くて。S先輩は高校を卒業して、名古屋市内の焼き鳥屋で働いていたんですが、同じ職場にいた先輩が辞めてイギリスの日本料理店で働き始めたそうなんです。ある日、その先輩から連絡があって『1年でいいから手伝いで来ないか?』と。もちろん英語なんて話せなかったそうですが、面白そうと思って二つ返事でイギリスに行くことにしたとのことで。 そこで1年働き、一旦帰国。すると、イギリス時代に知り合ったポーランド人の料理人から誘われて今度はポーランドへ。1年ほど働いてまた帰国して、今度は一人で海外を放浪したいと思い、バックパッカーとなって放浪してきたというんです」  S先輩の話を聞くうちに武井さんは胸のモヤモヤが晴れていくような感覚を受けたという。その日以来、ほぼ毎日のようにS先輩と飲み歩き、海外の話に耳を傾けた。 「S先輩と会ってから1か月くらいたったある日、不動産屋の社長から呼び出され『そろそろ答えを出してくれ』って言われたので、正直に『海外に行ってみたいんです』って話したら、ウーンってすごい渋い顔で黙り込んで……。そしたら『不動産屋はいつでもできるけど、若い頃の旅はその時しかできないから行ってこい』と言ってくれました」  さらに社長は「帰ってきて仕事なかったら、ウチにこいよ」と言い、その一言で武井さんは思わず泣いてしまったという。武井さん、22歳のときのことであった。
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放浪するも…同級生の存在が“見えないプレッシャー”に
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グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター

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