“ヘヴィメタルの帝王”オジー・オズボーンの“最高の死に様”。「コウモリの首食いちぎり事件」だけじゃない、型破りな逸話の数々
オジー・オズボーンでも死ぬのか。ずっといるものと思い込んでいた。彼くらいの存在になると、普通の人間に訪れる死とは無縁なのだと勝手に考えていた。
最後のライブと銘打たれた「Back to the Beginning」を7月5日(現地時間)に開催したオジー。しかし、何度も引退を表明してはそのたびに活動再開してきた彼である。この先、何度も引退詐欺をしてくれるものだと思っていた。
「生涯現役」「完全燃焼」と口にする人は多いが、「ステージから去る」=「死」になるなんてあまりにカッコよすぎやしないだろうか。ラストライブは、まさに生前葬。しかも、そこで弾き出した270億円もの収益を医療寄付してからこの世を去り、ランディ・ローズの待つ世界に行ってしまった。なんという見事な幕引きか。
人生最期のライブの最後の曲が、10代で出会った旧友3人=ブラック・サバスと演った「Paranoid」である。サバスで始まり、サバスで終わる。最高の生き様と死に様ではないか。
きっと、オジーはろくでもない死に方をすると思っていた。かつての彼は、そんな生き方を送っていたからだ。でも、仲間と家族に見守られながら76年の人生に幕を閉じた。
最後にジェイク・E・リーと良好な関係に戻れたのも幸せだったと思う。もしかしたら、本人は悟っていたのかもしれない。
オジーがブラック・サバスのヴォーカリストとしてデビューしたのは70年代初頭。当時はレッド・ツェッペリン、ディープ・パープルと共に「ハードロック3大バンド」と呼ばれていたが、特に日本においてサバスは他の2バンドほど人気を獲得できなかった。英国ブルース・ロックをモノトーンに凝縮した陰鬱さは、日本人にわかりにくかったのだ。1971年に予定されていた来日公演が中止になったのも痛かった。
しかし、サバスを脱退後である80年代以降のオジーはヘヴィメタルのアイコンとして大きな存在感を示し、アンダーグラウンドへの入り口としての役割を担い続けた。
オジー・オズボーンが初めてバンドを組んだのは、10代の頃。1948年に労働者階級の家庭に生まれたオジーはさしたる教育も受けないまま成長し、酒代を稼ぐために夜な夜な商店に忍び込んでは盗みを繰り返す日々を送るようになった。
いつしか“ヤバい仕事”に手を染め、刑務所に入ったオジー。出所後、彼は友人が組んだバンドにヴォーカリストとして加入した。しかし、メンバー全員がまともにチューニングもできない有り様で、バンドは程なく解散。再び“ヤバい仕事”を始めたオジーは「これじゃまた、刑務所行きだ」と将来を案じ、近所のクラブにバンドのメンバー募集を告知する。それに応募してきたのが、のちにサバスのベーシストになるギーザー・バトラーだった。
その後、ドラムのビル・ワード、ギターのトニー・アイオミの順番で加入して「アース」なるグループ名でバンドは始動。当初はイギリスで流行っていたジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズのようなブルース・ロックを演奏していたが、その頃は泣かず飛ばずだった。
そして、ある日転機が訪れる。オジー本人が回顧する。
「ある日、リハーサルスタジオにトニー・アイオミが来て、向かいの映画館でホラー映画をやってるって言うんだ。『みんな怖い目に遭いたくって金を払うだなんて、おもしろいと思わないか?』って。それで、聴くだけで怖くなっちまうような音楽をやってみようかってことになったんだ。そうして書いたのが、『Black Sabbath』(デビューアルバムの1曲目)だった。あまりにインパクトがある曲だったんで、どのクラブでも俺たちは『あのBlack Sabbathを演るバンド』って呼ばれるようになったのさ。それである日、アースって名前のバンドがほかにもいるって知って、だったらバンド名をブラック・サバスにしちまおうってことにしたんだ」(「ミュージック・ライフ」1996年3月号、以下同)

Ozzy Osbourne Instagramより
「ろくでもない死に方」をすると思っていたが……
刑務所から出所後、音楽活動を始めた10代のオジー
1978年、東京都生まれ。2008年よりフリーライターとして活動中。得意分野は、芸能、音楽、(昔の)プロレス、ドラマ評。『証言UWF 最後の真実』『証言UWF 完全崩壊の真実』『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実 』『証言 長州力 「革命戦士」の虚と実』(すべて宝島社)で執筆。
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