田原総一朗がテレビ局を追われた35年前の問題作【後編】
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「書こうと思ったきっかけは、70年代に起きた原子力船『むつ』の放射線漏れ事故ですよ。取材で現地に赴いたら、推進派は放射線をラジウム温泉に例えて『むしろ体にいいもんだ』と言う。反対派は反対派で、わずかな放射線漏れのアクシデントでも青森は『第2の広島』になると言う……。どっちもどっちの主張でストンと腑に落ちない。だったら、自分で確かめてやろうと思ったわけです。ただ、僕はこの本の連載をしている途中で、それまで勤めていたテレビ局からストップがかかった。電気業界を敵に回したんだな、これが。でも、僕はどうしてもこの本を最後まで書き終えたかったので、スパッと会社を辞めることにしたんです(笑)」
名うてのドキュメンタリー作家として、数多くの珠玉の名作を世に送り出してきた田原氏。過去には過激な潜入取材などで2回の“逮捕歴”もあるが、それでも、会社から“クビ”を言い渡されることはなかった。にもかかわらず、この原子力という「最大のタブー」に触れた途端、局を追われる身になってしまったということだ。
「僕はね、『朝まで生テレビ!』で、日本で初めて原発の推進派と反対派の討論企画をやったんですが、このときからずっと議論そのものが噛み合っていない。原子力が危険か安全か問われたら危険に決まっている。ただ、それを人間がちゃんとコントロールできるかが一番のキーワードなんです。今は反対を唱えていた人たちが『ほれ見たことか!』と騒いでいるが、逆の立場の人間は『管理不行き届きだっただけで、原発そのものには問題はない』と主張する。この“ズレ”の部分を、今こそちゃんと議論せずにどうするのか! と言いたいですよ」
本編のなかには、印象的な人物が数多く出てくる。
「原発でやられた人間が、平和利用の原子力船でパール・ハーバーを訪問するというのがぼくの夢だった」
これは、長崎の魚雷工場で工場長を務めていたときに被爆したものの、戦後、高度成長という時代を経て推進派の急先鋒となった技術者の独白なのだが、実質的に被爆者の立場で反対派を懐柔する役割も担っていた人物だという……。
あまりにも多くのステークホルダーが入り乱れる壮大な複雑怪奇の物語を眺めていると、原子力をアンチかそうでないかのふたつに分けた、単純なイデオロギー闘争と括れる話ではないことに気づかされる。
いま、定期検査の終わった原発再稼働をめぐって、ストレス・テストを行うかどうかすったもんだが続いているが、この本のなかにエネルギー政策再構築のヒントが隠されているように思う。
取材・文/山崎 元(本誌)
『原子力戦争』(ちくま文庫)
70年代、原子力船「むつ」の放射線漏れ事件を背景に、安全より巨大利権が優先される過程を鋭く衝いた渾身の1冊。田原氏自身を投影したTVディレクター・大槻が物語を引っ張る。76年にATG映画として製作され、このときの主演・原田芳雄が原発を巡る利権争いに巻き込まれるヤクザを演じたが、これが原作を捻じ曲げたものであったためこの後「封印」になるという逸話も
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