第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(17)

 決勝戦の開始まで、1時間ほどあった。

 良平がオフィスに戻ると、優子がiPadを操作しながら、サンドウイッチを頬張っている。

 大会参加者たちから依頼された案件が、どうやらまだ片付いていないようだ。

 優勝賞金は800万HKD(1億2000万円)である。

 間違って優勝でもしてしまったなら、そのうちの半額6000万円が、良平の約束どおり優子の取り分となった。しかも無税で。

 それにしては、優子に気負った素振りは見えない。そのこと自体は歓迎すべきなのだろう。博奕でイレ込むとロクなことがない。

 優子はサンドウイッチを咀嚼しながら、iPadを見詰めて淡々と事務処理をおこなっていた。

「忙しくてランチを食べる時間がありませんでした。朝早くフロアでクロワッサンをひとついただいただけだったのです」

 紙ナプキンで唇をぬぐって、優子が言った。

「どうも、驚いたね」

 と良平。

「大事な試合の前です。腹が減っては戦いくさができぬ、って言うじゃないですか」

 と、コーヒーを口に流し込んだ優子。

「そうじゃなくて、予選のことだ。大会で、最初から最後までミニマム・ベットを続けた打ち手なんて、初めて見た。それも一方のサイドだけへ」

 と良平。

「バカラ大会では『同席者が勝手に負けるのを待つ』と教えてくださったのは、良平さん、あなたでしたよ。わたしは疲れ果てていたから、考えるのも面倒だったし。おまけにどうせ考えても、わたしはケーセンの読み方も知らないわけですから」

「なんかバカラ大会における生き残り方法のお手本みたいな打ち方だった。でも決勝テーブルでは、そうはいかないよ。予選は生き残りを目指した『受け』で通過できても、決勝は『攻め』も組み合わせる打ち方が必要だ。ここいらへんの加減は難しい」

「難しいことなど、わたしにはできません」

 と優子が応えた。

「三着以下は賞金がつかない、賞状も出ない。まあ、賞状なんてもらっても、嬉しくはないのだろうけれど。『ご苦労さん』の一言で終わってしまうのだから、みんな優勝を狙った打ち方をしてくる」

「それで皆さんが飛ぶのを待っていては、いけないのですか?」

 と優子。

「原点維持を狙うという戦法もありそうだけれど、終わってみれば、普通一人か二人は水面上からかなり顔を出しているものだ」

「ふ~ん」

 優子がサンドウイッチの最後の一片を口の中に放り込んだ。

「じゃ、どうしろと?」

 と、優子が良平のアドヴァイスを促した。

「わたしにもわからないさ。もし『必勝法』なんてものが存在するとしたら、世界中が億万長者だらけとなってしまう」

「それもそうですね。お仕事のお邪魔になるかもしれないけれど、わたしはそこで、すこし横になります。大事な試合の前ですので」

 そう言ってから、優子は立ち上がりオフィスの隅にあるソファの上で手足を伸ばした。

 短めのスカートがめくりあがり、優子の細くて長い脚が付け根まで露わとなる。

 それが気になって、とても事務整理などできそうもなかった。

 オフィスでの仮眠用に常備してある毛布をロッカーから取り出すと、良平は優子の上に掛けた。

 優子はすでに苦しそうな寝息を立てている。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。