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ウルティモ・ドラゴンは外国で暮らす日本人レスラー――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第268回(1997年編)

 ウルティモは、子どものころからずっと旅をつづけている。中学、高校時代はビッグイベントがあるたびに東京へ“密航”していた。いつでも着替えができるように、いつもマジソン・バッグにふだん着を入れておいた。実家のある名古屋から大垣(岐阜)経由で“国鉄”の東海道本線の夜行にもぐり込んでくることもあったし、東京駅では新幹線の改札をダッシュでブッチしてくることもあった。  後楽園ホールの1階のエレベーター前は悪ガキたちの溜まり場だった。初代タイガーマスクの大ファンだったウルティモは、虎の仮面をかぶり、バック転、バック宙なんかを披露してはみんなを喜ばせていた。 「外国で暮らしている日本人レスラーって、いなくなっちゃったじゃないですか」とウルティモは残念そうにつぶやいた。そういえば、ひと昔、ふた昔まえまではアメリカやカナダを本拠地にしていた日本人レスラーはずいぶんたくさんいた。ヒロ・マツダ、マサ斎藤、上田馬之助、ザ・グレート・カブキ、ミスター・ヒト(安達勝治)、ケンドー・ナガサキ(桜田一男)、キラー・カーン。彼らは文字どおり裸一貫で海外で成功したジャパニーズ・ピープルだった。  ウルティモは、子どものころ、一流といわれているプロレスラーはみんな英語でもスペイン語でもペラペラなんだろうと堅く信じていた。たとえば、上田馬之助の悪役としてのイメージやそのグレードの高さには“ペンサコーラ在住”という非日常的なプロフィルがセットになってだぶっていた。ウルティモは、ルチャリブレがやりたくてメキシコを選択した。  ルチャドールとしての生活はまる10年になる。デビュー戦は1987年5月11日。パチューカという町で“死の伝道師トリオ”ロス・ミショネロス・デ・ラ・ムエルテ(エル・シグノ&エル・テハノ&ネグロ・ナバーロ)を相手に6人タッグマッチを闘った。
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パートナーは新日本プロレス合宿所時代の先輩たち
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