テリー・ファンクの“ワン・モア・ナイトをワン・モア・ナイト”――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第265回(1997年編)
それはもう呪文のようなものなのだろう。テリー・ファンクは、リングシューズのヒモを結び合わせるたびに「ワン・モア・ナイトOne More Night」とつぶやく。ほんとうは体力も気力もとうの昔に使い果たしている。
みんながさかんに「プリーズ、Please」というからついついその気になってしまうこともあるけれど、それももうどれくらいつづくかわからない。
“みんな”というのはECWのボーイズだったり、ポール・Eことポール・ヘイメンだったり、日本のテリー・チルドレンだったりする。
これからのことはあまり考えないようにしているらしい。どういうタイミングでどういうことをすればいちばんいいジ・エンドになるのかを知りたい。たぶん、プロレスラーにジ・エンドなんてないのだろう。だから、ワン・モア・ナイトがワン・モア・ナイトとしてつづいていく。
1997年は、テキサス州アマリロにプロレスが根づいてちょうど50周年の節目の年だった。テリーの父ドリー・ファンク・シニアがホームタウンのインディアナ州ハモンドからアマリロに移り住んだのは第二次世界大戦後の1947年。兄ドリー・ジュニアは6歳、テリーは3歳でミッドウェストからアマリロに引っ越してきてテキサンになった。
ドリー・シニアはプロレスラー、プロモーターとしてアマリロに“王国”を築き、ふたりの息子たちにレスリングを教え、アマリロが彼らをグレート・テキサンに育てた。ドリーもテリーもNWA世界ヘビー級チャンピオンになった。
兄ドリーは世界チャンピオンになって父親を喜ばせることができたが、ドリー・シニアは1972年、54歳の働きざかりに心臓発作で急死。テリーは世界チャンピオンになった姿を父親にみせることができなかった。
ドリー&テリーのザ・ファンクスがザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーと闘う因縁ドラマのロングランに夢中になった、1970年代後半から1980年代前半にかけてティーンエイジだった日本の多くのプロレスファンも――プロレス的なアイデンティティーにおいては――後天的テキサンということになるのかもしれない。
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