「紙の匂いを食べて生きていた」貧乏な家に育った私は大人になっても借金地獄にいる――爪切男のタクシー×ハンター【第二十六話】
同棲している彼女に五十万ほどの借金があると知ったのは、一緒に暮らし始めて四年ほど経った頃だった。出会った時、新宿の唾マニア共に自分の唾を売り歩き、一日の食事は全て叙々苑というバブリーな生活を送っていた女にまさかの借金発覚である。最初は百万近くあった借金を、自分の唾を売った金で半分ぐらい返済したのだという。借金を黙っていたことへの怒りよりも、唾で五十万も返済したことへのリスペクトの気持ちが上回ったので、私は全てを笑って許した。借金の原因は、日韓共催サッカーワールドカップ開催時に、当時仲が良かった外人から持ち掛けられたTシャツビジネスで失敗したのが原因だそうだ。Tシャツビジネスってなんだ。
考えてみれば、彼女に唾を売るのをやめさせたのは私であるし、いつまでも借りては返すの自転車操業をさせるわけにもいかない。五十万ぐらいなら、私が肩代わりして払ってやろう。そう思った私は、すぐさま消費者金融で五十万を借り入れ、彼女の借金をチャラにした。無人契約機からプリントアウトされて出てくる契約書。もちろん、私はその契約書の紙の匂いをテイスティングした。
順調に返済すれば一年ぐらいで完済できる見込みだったが、借りられる限度額が増えるたびに、私は借り入れを繰り返してしまった。日中は仕事に追われ、家では精神に病を抱えた彼女に手を焼かされる日々。そこから来るストレスで私は多数の消費者金融から借金を繰り返し、借金総額は二百五十万、毎月の返済額は十万という立派な多重債務者になってしまった。
借金は増えても、当時の仕事であるメルマガ編集長の給料が高額だったので、経済的に困窮することはなかった。ただ、返済の為にATMまで足を運ぶことは億劫だった。駅前にある六階建てのビルは、二階から六階までアコム、アイフル、プロミスなどの有名消費者金融のATMで埋まっている。私は、一回の返済で三階、四階、六階に足を運ばなければいかず、それが本当に面倒だった。
その面倒さよりも嫌だったのは、ビルのエレベーターである。いつ行っても、エレベーター内は洗剤の匂いが充満していた。おそらく、雑な清掃会社が洗剤を使い過ぎているだけなのだが、毎回毎回そのきつい匂いを嗅いでいると、日常生活において、洗剤の匂いを嗅ぐだけで借金のことを思い出してしまうようになり、軽い吐き気をもよおすほどになった。洗剤のかぐわしい匂いに包まれて上昇していくエレベーターは、天国に向かうゴンドラのような清潔感漂う空間なのに、目的地で待っているのは借金返済という地獄なのだ。皮肉なものだ。
借金がある家庭に育った私にとって、多重債務など屁の河童だと思っていたが、他人が借りた金と、自分が借りた金では精神的ストレスが全く違った。一か月汗水流して働いた金が一気にまくし取られる悲しみ、利息を払っているだけで元金が全く減らないグレー金利の辛さ、やり場のない怒り。全ては金を借りた自分が悪い。そう分かっていても、私の心は常に靄がかかったようにどんよりとしていた。
借金の悩みを誰かに相談するのは格好悪いと思い、家族、友人、彼女の誰にも打ち明けずに、一人で日々思い悩んでいた。特に、彼女にだけは泣き言を言うわけにはいかなかった。そんなことをすれば、借金を肩代わりをしてもらった自分自身を責めてしまうのは容易に想像がついたからだ。
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