ドリー・ファンク・ジュニア 永遠のグレート・テキサン――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第30話>
40代からレスラーとプロモーターの兼業になったドリー・シニアは、世界チャンピオンになる夢を長男ドリーに託した。
ドリーはウエスト・テキサス州立大フットボール部でオフェンシブ・ガードとして(1959-1962年)で活躍後、1963年7月に地元アマリロでデビューした。
このウエスト・テキサス州立大フットボール部はその後、ダスティ・ローデス、ディック・マードック(同大学のフットボールの公式戦には出場したことがあるが、じっさいに在学したことはないとする説もある)、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセン、テッド・デビアス、ボビー・ダンカン、ティト・サンタナ、タリー・ブランチャードなど数多くの超一流プロレスラーを輩出することになる。
ドリー・シニアはパット・オコーナー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、バーン・ガニアら全米各地のスーパースターたちをゲストとしてアマリロにブッキングし、ルーキーのドリーとのシングルマッチをプロデュースした。
ドリーはデビューから1カ月でガニアと60分フルタイムのドローを演じ、同年11月には47歳(当時)のNWA世界ヘビー級王者テーズがアマリロに遠征してきて22(当時)のドリーの挑戦を受けた。
この試合は60分時間切れのドローでテーズが王座防衛に成功したが、このタイトルマッチがドリーの“出世試合”となった。
地元アマリロでメインイベンターの道を歩みはじめたドリーがG・キニスキーを下してNWA世界ヘビー級王座を手にするのは、それから6年後のことだった(1969年2月11日=フロリダ州タンパ)。
ドリー・シニアは、1960年代後半に入るとNWAアマリロ地区代表としてNWA本部のボード・オブ・ディクレクター(タイトル管理委員会)に名を連ねていた。
テーズがキニスキーに敗れてNWA世界王座を失うと(1966年1月7日=ミズーリ州セントルイス、キール・オーデトリアム)、ドリー・シニアはその政治力を使って全米各地でキニスキー対ドリーのタイトルマッチをプロデュースした。
とにかくドリーをNWA世界王者に育て、テーズが腰に巻いたチャンピオンベルトをアマリロに持ってくることにドリー・シニアは人生のすべてをかけた。
28歳でNWA世界王者となったドリーは、前王者キニスキーのスケジュールを引き継いで全米ツアーを開始した。
初来日は1969年(昭和44年)12月。日本プロレスのリングでジャイアント馬場、アントニオ猪木を相手にNWA世界王座防衛戦をおこなった。
ドリーの初めての日本ツアーに父ドリー・シニアと“弟分”ハーリー・レイスも同行。2度めの来日は翌1970年(昭和45年)7月で、このときは弟テリー・ファンクが初来日した。
皮肉な現実といえば、そういうことになるのだろう。世界チャンピオンとして年間300日以上をロードで過ごすようになったドリーは、ほとんどアマリロには帰ってこなくなった。
ヒューストンでのニック・ボックウィンクルとのタイトルマッチ、カナダ・カルガリーでのビル・ロビンソンとのタイトルマッチが屈指の名勝負として全米のプロモーターから高い評価を受けた。宿命のライバルであるジャック・ブリスコとは50数回対戦し、いちどもフォール負けを許さなかった。
東海岸エリアと北部のAWAエリアを除くアメリカのほぼ全土、カナダ、メキシコ、日本、オーストラリア、ニュージーランドを休みなくサーキットしたドリーは、“弟分”のレイスに敗れて4年3カ月間にわたって保持したNWA世界王座を明け渡すことになる(1973年5月24日=ミズーリ州カンザスシティー)。
ドリー・シニアは、ドリーがチャンピオンベルトを失ってからわずか10日後に突然、心臓発作でこの世を去った。
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