ドリー・ファンク・ジュニア 永遠のグレート・テキサン――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第30話>
アメリカのプロレス史には“テキサス”というジャンルがある。アメリカの地図をみてみればよくわかるが、テキサス州はそれだけでひとつの国といっていいくらい大きい。
ニューヨーカーがマンハッタンを世界の中心ととらえ、カリフォルニアンがウエストコーストこそは新しい文化の発信地と信じているように、テキサンTexanはリオグランデをはさんでメキシコと隣接し合衆国最南端に位置するテキサスこそアメリカのハート、アメリカでいちばんアメリカらしい土地と考える。すべてのアメリカ人はもともとカウボーイだったという発想である。
テキサスはアメリカ合衆国独立宣言(1776年)から60年後の1836年にメキシコから独立してテキサス共和国となり、その後、1845年にようやく28番めの州として合衆国と合併した。
南北戦争(1861年―1865年)が起こると、再び北部と袂を分かって再び独立国となった。アメリカ南部といえば、基本的にテキサス州とその周辺を指す。
テキサスを“独立国”というふうに考えるとすると、20世紀のテキサスのプロレスの地図はヒューストン(ポール・ボーシュ派)、ダラス(フリッツ・フォン・エリック派)、サンアントニオ(ジョー・ブランチャード派)、アマリロ(ドリー・ファンク・シニア派)の4つのテリトリーに分類することができる。
アマリロのプロレス史は、いうまでもなくファンク・ファミリーの物語である。
1960年代から1980年代を代表するスーパースターであるドリー・ファンク・ジュニアをよくを知るためには、まず父ドリー・ファンク・シニア(本名ドランス・ウィルヘルム・ファンクDorrance Wilhelm Funk)についてふれておく必要がある。
1919年生まれのドリー・シニアは、ルー・テーズと同じ時代を生きたプロレスラーだった。ハイスクール時代はインディアナ州選手権に3年連続優勝し、インディアナ大レスリング時代はAAU全米選手権に優勝。
1939年にプロレスラーとしてデビューし、54歳で心臓発作で急死するまで現役で活躍した。第二次世界大戦後の1947年、ホームタウンのインディアナ州インディアナポリスからテキサス州アマリロに移り住み、ここを安住の地に選んだ。
ドリーと弟テリー・ファンクの出身地は“公式プロフィル”ではアマリロとなっている場合が多いが、じっさいはドリーが6歳、テリーが3歳のときにインディアナポリスからアマリロに移転とするのがより正確なデータということになる。
ドリー・シニアは1950年代にアマリロのプロモーター、キャル・ファーリーCal Farleyからローカル団体を買収し、アマリロとその周辺エリアのプロモーターとなった。
現役時代、ドリー・シニアはアマリロ地区認定ノースアメリカン王座(通算17回保持)として活躍し、サザン・タッグ王座、ノースアメリカン・タッグ王座など数多くのローカル・タイトルを獲得。
アンジェロ・サボルディーを倒してNWA世界ジュニアヘビー級王座を1カ月間だけ保持したことがあったが(1958年6月5日=アマリロ)、“鉄人”ルー・テーズにはどうしても勝てなかった。
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