更新日:2022年12月10日 19:22
スポーツ

ドリー・ファンク・ジュニア 永遠のグレート・テキサン――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第30話>

 ドリーと日本のレスリング・シーン、もっとわかりやすくいえばジャイアント馬場とアマリロのコネクションが密接になっていくのは、ドリーがNWA世界王座を失った直後からだった。  32歳(当時)の元世界チャンピオンはシリーズ興行の目玉商品として、また外国人選手招へいの窓口=ブッカーとして年に数回ずつ全日本プロレスのリングに登場するようになる。  全日本プロレスとアマリロは“姉妹テリトリー”のような関係になり、ミュンヘン・オリンピックのアマチュア・レスリング代表選手から全日本に入団したジャンボ鶴田は、日本国内での正式デビューをまえに約1年間、アマリロで武者修行サーキットを体験した。  日本のプロレス史に残る“思い出の名場面”としていまも語りつがれる因縁ドラマは、『世界オープン・タッグ選手権(1977年12月15日=東京・蔵前国技館)からはじまり、その後の『世界最強タッグ』へとつづいていくドリー&テリーのザ・ファンクス対ザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーの一連の死闘だ。  沈着冷静な兄ドリーと激情タイプの弟テリーが織りなす兄弟愛のプロレス、喜怒哀楽のプロレスは日本じゅうに“信者ファン”を生んだ。『全日本プロレス中継』(日本テレビ)がゴールデンタイムで放送されていた時代のヒーローだった。  1990年代後半はWWE直営レスリング・スクール監督に就任し、アトランタ・オリンピック(1996年)の金メダリストからプロレス転向を果たしたカート・アングルにプロレスの基礎をコーチした。  現在はフロリダ州オカーラでレスリング・スクール“ファンキング・ドージョー”を経営。現役選手としても時おりリングに上がっている。 ●PROFILE:ドリー・ファンク・ジュニアDory Funk Jr. 1941年2月19日、インディアナ州インディアナポリス出身。NWA世界王者時代のニックネームは“若馬”だったが、1970年代後半からは“グレート・テキサン”のほうが定着した。得意技はスピニング・トーホールドとダブルアーム・スープレックス。全日本プロレス発足時からの外国人選手のブッカーとして活躍。1980年代後半から1990年代にかけてはWWE、ECW、FMWのリングにも上がった。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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