更新日:2022年12月17日 22:34
スポーツ

40歳で世界初の“クラウドファンディングJリーガー”になるまで。ヤンキー高校、本場ブラジルの過酷な環境を経て…

安彦考真

23歳で引退、“本当の理由”を隠して通訳・指導者の道に…

 努力が実り、ブラジルの『グレミオ・マリンガFC』との契約に成功した安彦氏。しかし、リーグ戦開幕の直前に前十字靭帯を断裂し、失意の帰国となる。「また渡りたいと思っていましたが、ビザの関係もありなかなか動けず。たまたま日本でジーコのお兄さん、エドゥと知り合い、彼の運営するエドゥサッカーセンターで選手兼コーチ兼通訳みたいな感じをやらせてもらいました」。靭帯が治り、リハビリも完了。エドゥのもとでトレーニングを積んだ彼に、清水エスパルスとサガン鳥栖の入団テストのチャンスがやってくる。 「好機到来だというのに完全にビビってしまい、まともに受けられなかったんです。それがすごく恥ずかしくて。ブラジル帰りだぞ! どうだ見てみろ! みたいな感じだったのに、周りはもっとうまくてシュンとなっちゃったんです。それを僕は隠しました。そのまま、ちょうどエドゥがジーコジャパンに呼ばれた2002年、僕もタイミングだと」  22、3歳でサッカー選手に区切りをつけ、プレイヤーを引退。その後、ブラジル留学の経験を活かして、通訳の道を歩むことになる。 「サッカーが嫌いになった、と周りには言い……。でも、それは嘘で。なんか言い訳が欲しかったんですよ。ビビった以外の理由で辞めたかった。で、ブラジルに恩返ししたいから通訳をやるんだ、みたいな」  大宮アルディージャに’03年から通訳として参加するも、目の前のプロ選手たちに眩しさを感じていた。 「それこそ現水戸ホーリーホック強化部長の西村とか、選手の冨田大介とか。彼らはプレイヤー、僕は通訳。同い年が躍動している姿を見ていると、やっぱり自分もやりたいんだなと。見栄はって、俺はそういうんじゃない、裏方で、と言い聞かせますが、結局自分が前に出たいんです。僕は“自分の人生の主人公は自分”じゃないとダメなんですよ」  不完全燃焼を解消するため、指導者の道に進もうと、大宮アルディージャ退任後、通信制の高校に。 「茨城県の大子町で、サッカー部を作って欲しいと招かれたんです。よし! 任せろと引き受けたんですが、部員が1人も集まらず、半年後にクビ。その後、元Jリーガーの北澤豪さんがサッカースクールを始めるのに呼ばれ、立ち上げから一緒に活動して。’13年までマネージメント、スクール運営、企画、イベントなどを担当し、いろいろ学ばせてもらい独立しました」  そして、スポーツディレクターとしてフリーランスになった。 「中央高等学院という通信の高校で総監督としてサッカーコースに参加。僕にとってはリベンジだったんですよ。1人も集められなかった部員を今度はどこまでできるのか」  東京ヴェルディと組むプロジェクトに、ディレクションまで請け負って講師も兼ねた。 「今では40人くらいの生徒が集まっているので、まぁゼロではないという意味ではリベンジ達成できたと自負しています。さらに、麻布大学付属高校、またリベンジなんですけど、僕が頭で入れなかった学校がコーチとして契約してくれて。サッカー部を2回連続でインターハイに連れて行けました。そうやって自分のやり残したこと、やりたかったことを取り返せたんです。本当に巡り合わせ良く進み、しかも全てサッカー仲間が繋いでくれた縁なんですよ」  人生のベースにサッカーがある安彦考真。スポーツディレクターとしての活動では飽き足らず、次のアクションを仕掛ける。それが“クラウドファンディングJリーガー”だったのだ。<取材・文/金井幸男、撮影/藤井敦年>
編集プロダクション勤務を経て、2002年にフリーランスとして独立。GETON!(学習研究社)、ストリートJACK(KK ベストセラーズ)、スマート(宝島社)、411、GOOUT、THE DAY(すべて三栄書房)など、ファッション誌を中心に活動する。また、紙媒体だけでなくOCEANSウェブやDiyer(s)をはじめとするWEBマガジンも担当。その他、ペットや美容、グルメ、スポーツ、カルチャーといった多ジャンルに携わり、メディア問わず寄稿している。
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