第571回 9月12日「オリンピックとeスポーツ」
―[渡辺浩弐の日々是コージ中]―
・オリンピックは強行されそうな雲行きになってきた。是非は別として、その結果すさまじい痛みが発生することを予想する。それがオリンピックというもの、ないし国際スポーツというものが見直されるきっかけとなるだろう。
・コロナショックでわかったことは、ある民族にとって致死的なのに別の民族にはそれほど害がない、そんなウィルスが存在することだ(だから遅かれ早かれ、日本も含むアジア系DNAの人々に甚大な被害を及ぼす疫病が流行することも予想する)。世界をかき混ぜて均一にすることが善だ。そんな価値観がこの100年間台頭していた。オリンピックはそういう幻想に基づいて進められてきた事業だから、現実に対してはとても脆弱だ。どんなに仲良しでも平和でも疫病は容赦してくれない。
・アメリカと石油メジャーの覇権が続いたこの100年間、その利益構造のためにグローバリズムが正しいとされた。みんななかよくまぜこぜになりましよう。同じ生活を同じ豊かさを目指しましよう、と、マスメディアによって価値観の単一化が図られた。区別することまでが差別とされすさまじく糾弾された。近代オリンビックはその思想に乗って商業化に成功し、発展してきたものだ。
・ここで立ち止まって考えるべきなのは、疫病のことだけではない。たとえば民族によって体型も体質も違う。全く一緒の暮らしはできない。それで別々の生活を提供することは、差別ではなく区別として、必要なことではなかったか。
・本来スポーツは記録=数字の比較ではなく文化だった。食料の採取や外敵との戦闘など役に立つこと以外で体力を使うということは、とても知的なエンターテインメントだったわけである。
・たとえばアフリカあたりで平均身長150センチ以下の民族の村で古来から行われている相撲(ないしはレスリングのようなもの)の大会があるとする。その試合は、もし邪魔せずに観戦することができたらとても興味深く、かつ楽しいものになるだろう。しかし、そこに俺も参加させろと、世界各国から身長2メートル超えの巨漢達がやって来たら、それはちょっと違うと思うのである。
・リアルスポーツで国際イベントを行うことはそろそろ限界に近づいている。と考えると、ここでeスポーツの出番がある。はっきり言うと、すべての民族が区別も差別もなく競い合えるスポーツはeスポーツだけなのである。インターフェイスの工夫により、パラリンピックとオリンピックの境界もなくせるのだ。
・ゲーム業界はこのチャンスを活かせるだろうか。eスポーツは今、「スポーツとして認めてください」「オリンピックに入れてください」ではなく。「リアルスポーツはもう古い」「オリンピックなんてもういらない」というアピールからスタートするべきなのだ。
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作家。小説のほかマンガ、アニメ、ゲームの原作を手がける。著作に『アンドロメディア』『プラトニックチェーン』『iKILL(ィキル)』等。ゲーム制作会社GTV代表取締役。早稲田大学講師。
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