お殿様たちの受難。明治になって職を転々、女遊びに逃げた元大名も
平成から令和へと元号が変わり、そして現在、新型コロナウイルスという目に見えぬ驚異に、社会が大きく揺さぶられている。漠然とした不安とともに、何かが変わっているのをひしと感じている人も多いのではなだろうか。
社会システムや生活の大変容といえば、日本の歴史上もっとも大きかったのが明治維新だ。それまでの統治者だった殿様たちは領地も家臣も取り上げられ、激動の中に放り込まれた。そんな江戸から明治を生きた「最後の殿様」について、『殿様は「明治」をどう生きたのか』の著者で歴史研究家の河合敦氏に解説してもらった(以下、「 」内は河合敦氏)。
「歴史は、勝者がつくるもの。負けた側の言い分や弱者の声は消され、のちの世に残ることはほとんどない。新政府軍に敗れた会津藩も、長い間、賊徒としての汚名をきせられ、辛い立場を敷いられてきた。不幸の始まりは、九代藩主の松平容保が京都守護職を引き受けてしまったことにある」
京都守護職へ就任した容保が、不逞浪士や尊攘派を徹底的に取り締まったのはご存知のとおり。結果、長州藩・土佐藩から壮絶な恨みを買うことになるわけだが、容保的には「将軍への忠義を第一」とする会津藩の家訓に従ったまでのこと。さらなる不運は、忠義を捧げる将軍に梯子を外されてしまったことだ。
「鳥羽・伏見の戦いは旧幕府軍の敗北に終わり、前将軍・慶喜は配下を見捨てて大坂城から逃亡したのである。このとき容保も、慶喜に従った。君主としてあるまじき行為であった。
ただ、喜んで従ったわけではなかった。大坂城中で突然慶喜から江戸への随行を求められたのだ。驚いた容保は、徹底抗戦を訴えたが、慶喜は立腹してしまう。そこで困って『家老と相談させてほしい』と詰め所に行ったが、あいにく誰もいない。この間、慶喜はしきりに容保に随行を迫る。このような寸刻を争う状況に、ついに容保は家臣を置き去りにすることにしたのである。江戸に戻った慶喜は、最初は抗戦を叫んで威勢がよかったが、まもなく恭順の意を示し、新政府に憎まれている容保を遠ざけた」
江戸城は無血開城され、新政府は戦わずして勝ち、戦功を得たい兵士たちの欲求を満たすため、会津藩がスケープゴートとなる。容保がいくら平身低頭して謝罪しても受け入れられず、会津討伐の命が下される。1か月後の壮絶な戦いの末、難攻不落の鶴ヶ城も落ちてしまう。京都の恨みからか、新政府は戦死者を弔うことを許さず、会津藩の領地をすべて没収。
容保は処刑を免れ、鳥羽藩に預けられることに。明治5年に正式に謹慎が解かれ、4年後、従五位が与えられて、形としては賊徒の汚名を返上することができた。
「だからといって、容保が華々しく活動するようになったわけではない。表には出ずにひっそりと暮らした。その生活の様子も、晩年の逸話もほとんど記録に残っていないことが、容保の気持ちを物語っていよう。実際容保は、旧臣の山川浩に、『私のために命を落とした家臣は三千人にのぼるだろう。負傷して身体が不自由になった者や息子に先立たれて寄る辺のない者、飢えに苦しむ者も多い。すべては私の不徳の致すところだ。自分だけ贅沢な暮らしをしようとは思わない』そう述べたという」
明治13年、容保は日光東照宮の宮司に任命される。徳川宗家の菩提を弔う職は、将軍第一と考える容保にはもっともふさわしいものだったのかもしれない。最晩年は東京で暮らし、59歳になった容保は病に倒れる。
「このとき孝明天皇の女御・英照皇太后から牛乳が下賜された。すでに回復の見込みのない容保だったが、感泣にむせびながら、これを口にしたという。おそらくこのときはじめて、自分の罪が許されたという気持ちをもったのではないだろうか」
容保の生き様はあまりに愚直で不器用。とはいえ、価値観がゆらぐ時代のはざまで、頑なまでに信じられる何かがあるのはある意味幸せなのかも、しれない。
朝敵にされた悲劇の大名―― 松平容保(会津藩)
処刑は免れたが、ひっそりと暮らす
歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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