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お殿様たちの受難。明治になって職を転々、女遊びに逃げた元大名も

腹せぬ鬱憤を酒で紛らわせる―― 山内容堂(土佐藩)

「新政府ができてからの五年間、容堂は鬱屈した思いで世を過ごしていた。徳川家を己の力で救済することができず、薩長の脅しに屈して時勢に流されてしまった。しかも、そんな薩長のつくった新政府の重職にいる自分に、腹を立てつつも抜け出すことができず、その火照った不満を冷やすため、酒を水のごとくあおり女を抱き、みずから己の寿命を縮めた」
山内容堂

山内容堂、東京の浅草にあった内田九一写真館にて撮影された写真(明治初期。高知県立歴史民俗資料館所蔵品。パブリックドメイン)

 幕末の賢候の一人に挙げられる土佐藩十五代藩主・山内容堂。新政府の要職を歴任するが、新政府の方針に反対し、激怒をしては辞職を繰り返していた。  たとえば、王政復古の大号令によって、慶喜の辞官納地が強引に決定されると大激怒し、朝議の場で徳川擁護論をぶちまける。が、新政府に新設された議定の職に任じられる。  明治2年、高級官吏の公選に対し、「大臣といった高級官吏は、天皇のお眼鏡により仰せつけられるもの。それを投票で決めるなどもってのほか」とここでもやっぱり大激怒。席を蹴って退出するが、選挙の結果、学校知事に再任される。 組織に楯突きながらも、要職に取りたてられるのだから、ある意味、うらやましいが、本人の心中は複雑だったようだ。 「容堂は人目をはばからず豪遊を続けた。みずからを『鯨海酔侯』、『酔擁美人楼』と号しているように、容堂は酒をこよなく愛し、女と戯れるのを好んだ。 新橋、柳橋、両国などの酒楼で毎日のように芸者とどんちゃん騒ぎをしていた」

明治政府に反発して、芸者とどんちゃん騒ぎ

 ある土佐藩重臣の日記によると、断ったにもかかわらず、船遊びに付き合わされ、舟中では、政府の高官に対する愚痴を聞かされたという。とにかく、新政府の大久保利通や岩倉具視らのやり方が面白くない。「時勢を知らぬ愚物が多い世の中だ」と憤慨していたという。  明治2年、新政府が設置した役人の風紀を取り締まる弾正台に対しても、容堂は大反発する。 「西郷隆盛に対して、『もし豊臣秀吉の時代に弾正台などを設けたら、第一の家臣である盗賊出身の蜂須賀小六はどうなる。秀吉公自身も処罰されるだろう。まだ新政府も創業の時期、重箱の隅をつつくようなことはやめるべきだ。もし風紀を厳しく取り締まるというなら、俺の首を刎ねなくてはならなくなる』と放言。  弾正台ができてからも、容堂の豪遊はおさまらず、それどころかわざと、『大名といえども酒宴を開き、妓を聘し苦しからず候や』という伺書を政府に提出し、さらに、『今夜は友人と柳橋で会い、芸妓五人と遊興する』と届け出るなどして、その後も女をはべらし酒を飲み続けた」  さすがにこれは目に余ったのか、弾正台は政府に対して容堂の糾弾伺書を提出。すると容堂は、病気を理由に当時、就いていた学校知事の職をやめてしまう。容堂は「麝香間祗候(じゃこうのましこう)という名誉職を命ぜられるが、隅田川近くの浅草の橋場に隠棲。こうして以後、一切の官職から遠ざかり、悠々自適の生活を始めたという。

酒で体を壊して、46歳であっけなく死去

「すでに酒のために身体を害しており、明治5年正月、にわかに中風(脳血管障害)の発作を起こした。結果、左半身が不随となり、言語も不明瞭になってしまう。ただ、ドイツ人医師ホフマンのエレキテル(電気)療法の甲斐もあってみるみる回復した。3月には友人たちが両国の中村楼で容堂のために病気回復の祝宴を開いたが、同年中の6月21日、またも発作が再発し、そのまま昏倒して息を引き取った。まだ46歳。まことにあっけない最期だった」  新政府に取り立てられながらも馴染めず、憂さを酒で紛らわした容堂。豪傑、無頼と評されても、古い時代にしがみついた男の哀れさを感じてしまうのは、令和の世だからか。
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食うに困って、職を転々とした殿様
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歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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