伝説の番組「ひょうきん族」が後のバラエティーに与えた影響力がデカすぎる
文/椎名基樹
「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)が放送開始から40周年と言うことで、週刊ポスト(6/4号)がカラー8ページの豪華な特集記事を掲載した。「ひょうきん族」は、それ以降のバラエティー番組の方向を決定づけた。そしてテレビ番組のみならず、世間の人々に「新しいモノの見方」を提示した。特集記事からは、そんな歴史に残る番組の制作現場の熱気が伝わってきた。
ビートたけしは語る。当時のテレビ業界は「当てるためには何でもやる!」と言う熱気に溢れていた。裏番組の「8時だョ!全員集合」(TBS系)に正面からぶち当たっても勝目はないので「台本通りに作り込まれた王道コント」に対して「アドリブ」と「内輪受け」に徹した。アドリブの実力に関しては明石家さんまが群を抜いていた。だから自分はボケをやりたいのを我慢してツッコミ役に回った。「ひょうきん族では、実はオイラはビートたけしではなく、ビートきよしだったんだよな」。
特集記事には、片岡鶴太郎、西川のりお、島崎俊郎による鼎談が収められていて、裏話に思わず声を出して笑ってしまった。人気コーナー「ひょうきんベストテン」では、片岡鶴太郎による近藤真彦のものまねが人気だった。マッチのものまねはレパートリーではなかったがディレクターに「1回だけやってよ!」と言われ、鶴太郎は3日間マッチのものまねを練習した。
収録当日渡された台本には「マッチ、山小屋に入って死ぬ」とだけ書かれていた(笑)。リハーサルでは、スタッフが鶴太郎を山小屋に絶対に入れようとしなかった。本番で歌いながら小屋に入るとニワトリが何羽もいて爆竹も鳴り出した。鶴太郎はニワトリに襲われパニックになった。
島崎敏郎の当たり役のアダモステは、楽屋でビートたけしから「お前ポリネシアダンサーに似ているな」と言われたことがきっかけで生まれた。日本語が喋れない設定だったので、たけしと絡んだときに、ノープランのまま「ホンナニモ、カー」と叫ぶと皆が爆笑。しかしオチがつけられず、カメラが回り続けているので仕方なく「ペーイッ!」と叫び、それがアダモちゃんの持ちギャグとなった。
その後、最終回までアダモちゃんの台本は「嵐のように登場、爆笑のうちに嵐のように去る」だけだった(笑)。西川のりおのオバQも、追い込まれた末に思わず「バカぁ」と言ったことから定着した。
新しいモノの見方を提示した「オレたちひょうきん族」
スタッフ、演者に追い込まれて生まれたキャラクター
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1968年生まれ。構成作家。『電気グルーヴのオールナイトニッポン』をはじめ『ピエール瀧のしょんないTV』などを担当。週刊SPA!にて読者投稿コーナー『バカはサイレンで泣く』、KAMINOGEにて『自己投影観戦記~できれば強くなりたかった~』を連載中。ツイッター @mo_shiina
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