ライフ

モラハラ加害者が陥る“正義依存症”。他人を責めるとき「爬虫類のような目をしている」

DVやモラハラは自己否定を回避するための依存症

 星の王子さまに出てくる「飲んだくれ」の有名なセリフを思い出します。 「ここで何してるの?」 「飲んでんだ」 「なんで飲むの?」 「忘れたいんだ」 「何を忘れたいの?」 「恥ずかしいのを忘れたい」 「何が恥ずかしいの?」 「飲むのが恥ずかしい!」  心の底から、この飲んだくれに共感できます。  DVやモラハラを、行動に関するアディクションとして理解できると思います。そしてこれらの全ての始まりは強烈な自己否定、存在の不安からきているとも。  でも加害者はそれを自覚もできない。もっとすごい自分、もっと特別な自分、いまここにいない自分を追い求めて必死に生きてきた。褒められたかった。賞賛されたかったのです。

目の前の人も、自分自身すらも直視できていなかった

 自分の弱さを「これは自分じゃない」と切り離し、攻撃し、捨てようとしました。でもそれは自分なので、攻撃して、責めて、変われ、さもなくば死ねという言葉は、全て自分の中で跳ね返り、頭の中でずっと反響します。  ここもダメ、あそこもダメ、満足するな、もっと変われる、成長できる、努力が足りない、もっと頑張れる、こんなんじゃダメ、もっとすごい人がいる、と。  生きてきた中で「いま・ここにいる自分」じゃない、何か理想や役割を僕の後ろに幻視されて、その差分を言及されてきました。そのような意味で、自分はいつも不十分な存在でした。  このままの自分でいるのがずっと怖い。でももっと怖いのは、それを人にもやってしまっていたということです。僕も相手に、妻に、理想や役割を幻視して「目の前にいるあなた」をみることができませんでした。  べき、ねば、正解、当然、普通、当たり前という言葉でもって「目の前にいるあなた」から現実を始められなかった。 「幻視した何か」から現実を構成し、現実と外れた「目の前にいるあなた」を責めた。幻視した自分と比較して自分を責めるのと同じように、幻視した理想と相手を比較して相手を責めました。  だって現実の相手を見ていないから。二人で話しているのに現実の自分を見ていないというのは妻にとってどれだけ苦痛だったでしょうか。  これこそが究極の存在の否定、加害です。
DV・モラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッター:えいなか

孤独になることば、人と生きることば孤独になることば、人と生きることば

モラハラ、パワハラ、DV
人間関係は“ことば”で決まる

1
2
3
4
おすすめ記事