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モラハラ加害者が陥る“正義依存症”。他人を責めるとき「爬虫類のような目をしている」

「このままの自分でいてはならない」という強迫観念

 自分の人生には、常に異常な成長欲求がありました。その優越欲求の背後にあるのは激烈な自己否定感。つまり「このままの自分でいてはならない!!」という脳内に響き渡る声がありました。  自分はどんなに仕事ができても、能力を褒められても、人間としての魅力は全くないと思って生きてきました。自分の本当の姿を知ったら誰も自分を愛してはくれない、という不安が常にあるのです。 「自分は天才だ! なんてすごい人間なんだ!!」と思ったかと思うと、なにかで躓いたら「自分なんて生きる価値のない愚かな無力な人間だ、恥ずかしい……死んだほうがいい、死にたい」とうめきながら朝からアルコールに浸る自分はジェットコースターのような日々を生きていました。  連続飲酒に至るまでアルコールを飲み続けていた時期の僕は、もう正気でいることに耐えられなかった。自分のダメさや弱さ、どうせ捨てられてしまうという恐怖、ハリボテの自信はいずれ全員にばれる日が来るという絶望があったのです。

成功者がするようなことをしてみたかった

 何か恋愛や仕事で嫌なことがあると、そういう不安や悲しみの感情に圧倒されていました。お金を月に何百万円と稼いでもまったく関係なかったどころか、稼ぐほどに大きくなる虚勢やフィクションが崩れ去るのが恐ろしくなっていきました。 「どうせ何もかもダメになる日がくるのかもしれない」と思うとお金遣いも異常に荒くなり、妻には心配され続けていました。高いホテル、レストラン、ガジェットなどに散財すると賞賛されるべき人間になった気がして頭が麻痺して不安にならずに済みました。 「成功者がするようなこと」をしたかったのです。今思えばその成功者というイメージはあまりにも薄っぺらなものでしたが、自分はそれでもよかった。どこかで愚かなことをしていると明確に気づきながらも、人にマウンティングを取りたかったのです。  この頃には人に何かをおごりたがり、高いものをプレゼントしたがりました。相手のためなどでは決してありません。自分の権力を、パワーを証明するためにやっているだけなのです。案の定、妻はそれを感じ取り、決して僕からの贈り物に喜ぶことはありませんでした。  妻が求めてもいないことをしては「なぜ喜ばないんだ!」と悲痛に叫んでいたのを思い出します。妻からすれば、僕はほとんど病気に見えていたと思うし、後からそう言っていました。
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正しさへのアディクションとしての暴力
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