最高齢DJおばあちゃん(87歳)が語る幸福論「軽い幸せが日常の中にたくさんある」
高田馬場にある「餃子荘ムロ」。永きにわたって同店の看板を守り続けてきた女性がいる。彼女には意外すぎる“もうひとつの顔”があった。その人生に迫ると、私たちが忘れかけていた幸せのヒントが見えてきた。
新宿区高田馬場。駅前の喧騒から少し離れた路地に、1954年創業の「餃子荘ムロ」がある。同店を昨年まで切り盛りしていたのは、御年87歳の岩室純子さん。戦前から令和まで東京で生き抜いてきた彼女の原風景には、第二次世界大戦の戦禍がある。
「私が小学校に上がる前に第二次世界大戦が始まったんですが、そこで世の中がガラッとかわってしまいました。それまでは祖母が、服を買ってくれたりしていたんですが、戦争がはじまったら、すふ(スティーフルファイバー)で作られた手触りもデザインも良くないものばかりになってしまって。ランドセルも私たちの学年は牛革じゃなくて、ダンボールを固めたようなものだったので、すぐにボロボロになりました。最後には、家も空襲で焼けてしまって」(岩室さん)
そんな戦争も終わり、戦後復興の中で岩室家も立ち上がり始めた。父親はジャズドラマーであったが、戦時中には外国の音楽が演奏できなかったブランクもあり、戦後は後進に道を譲る。その後、芸能事務所を立ち上げるなどの紆余曲折がありながら、1954年に創業したのが「餃子荘ムロ」だ。同店の餃子は、小ぶりな粒に中華のスパイスがしっかり香る風味が印象的な味わい。
「父は戦前、演奏のために海外を飛び回って世界中の美味しいものを食べていました。中でも美味しかった中国の餃子を出したいと、試行錯誤をして作り上げました。ウーシャンフィ(五香粉)は今でもオリジナルでブレンドしているんです。タレも、酢醤油にマスタードとラー油を混ぜたもので召し上がっていただいています」
他では味わえない餃子は長く愛され、今でも同店には夜になるとファンが引きも切らない。
長きにわたって「餃子荘ムロ」の看板を守り続けてきた岩室純子さんにはもう一つの顔がある。DJ SUMIROCKとして、クラブに出演しているのだ。2019年には「最高齢のプロフェッショナルクラブDJ」としてギネス認定も受けている。一体どのようにして、DJの活動が始まったのだろう。
「70代の時に、フランス人の男の子がワーキングホリデイでうちに半年間住んでいたんです。彼が、『パーティをやりたいからお店を貸してくれない?』と言って、お店にスピーカーを入れてパーティをやったんです。それが評判になって、渋谷や原宿のクラブでもやるようになって、私もそこに遊びに行くようになりました。そこであるDJに『純子もやってみない?』と誘われて始めたんです」
そうしてDJを始めたのは、なんと77歳。それから現在まで、月に1〜2回はクラブに出演しているDJ SUMIROCKこと岩室純子さん。なぜその年齢で、全く異なる世界に飛び込むことができたのだろう。
「何しろ目に入るもの耳に入るもの、なんでも可愛いなと思ったり。他の人より、何でもかんでも可愛い!楽しい!と思っちゃう。単純なんですよ。だからクラブも楽しくてDJをはじめちゃいました」
一見、全くかけ離れた仕事のように感じられる、餃子店の仕事とDJ。しかし岩室さんいわく、そこには共通点があるという。
「餃子を食べた瞬間に美味しそうな顔をしてくださるお客さんがいます。DJだと、私がかけた曲でフロアの人たちが盛り上がってくれる。どちらもその瞬間に反応が返ってくるのが嬉しいんですよ。それにどちらも、周りからはちょっと変わってると言われるけど、私はそれが好きで続けてるんだけなんです。
餃子の味が他と違うのもそうですし、DJのときもクラフトワークなどのテクノからBPM(曲のテンポ)を早くして、アシッドジャズをかけた後、山下達郎をかけたら『そんな並べ方するの、純子だけだよ!』って言われますけど、だって好きなんだも〜ん(笑)」
68年の歴史を紡ぐ老舗餃子店
餃子屋さんのおかみ、もう一つの顔
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Boogie the マッハモータースのドラマーとして、NHK「大!天才てれびくん」の主題歌を担当し、サエキけんぞうや野宮真貴らのバックバンドも務める。またBS朝日「世界の名画」をはじめ、放送作家としても活動し、Webサイト「世界の美術館」での美術コラムやニュースサイト「TABLO」での珍スポット連載を執筆。そのほか、旅行会社などで仏像解説も。
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