更新日:2023年06月23日 18:27
仕事

「10人中7人がおいしい味」“創業50周年”日高屋会長が語る、生い立ちと創業の苦労

3人でやれば10店舗まで拡大できる

――「来々軒」がハイデイ日高のスタートだったんですね。 神田:今振り返ってみて、本当の意味でこの会社のスタートと言えるのは、蕨市(埼玉県)に作った3店舗目。高橋均前社長(義理の弟)や私の実弟も自転車を使って出前をやってくれていましたね。  当時は大工さんやラーメン屋は数年やって独立するのが一般的で、株式を公開して何百店舗も持つなんて前例がなかった時代でした。でも私は2人に「これから時代も変わってくるから、3人でやれば10店舗まで拡大できる。もし残ってくれたら経理をすべてオープンにするから信用してほしい」と宣言し、ついてきてもらいました。  あの2人が辞めちゃっていたら、今の会社はなかったですね。こうして、私が経営戦略、高橋が商品開発、弟が工場長という役割分担で始まりました。 ――ラーメンの技術はどこで培ったのですか? 神田:私には技術がないから、元ラーメン職人さんに教えてもらったんですよ。「経営者なのに、こんなのもわからんのか!」とか怒られながらね。そして、教えてもらったことをそのまま高橋に教えました。

屋台に注目!先見の明で誕生した「日高屋」

ハイデイ日高

1973年創業当時の店舗の絵の前に立つ神田会長

――三人体制で始まった「来々軒」ですが、現在の主力である「日高屋」とは若干コンセプトが異なります。日高屋はどのような形で誕生したのでしょうか? 神田:総合中華である「来々軒」にはある問題がありました。それはメニューがたくさんあるので、店舗を増やしていくうちに味がバラバラになってしまったことです。お客さんからご意見をいただくこともしばしば。そこで、ラーメン専門店と総合中華の真ん中だったら自分たちでもできるかなと「日高屋」を思いついたんです。 ――「日高屋」が大成功した理由は何だと思いますか? 神田:営業方法の着想を得たのは「屋台」。当時、弁当を持ったサラリーマンが減ってきたなと感じたんですよ。だから、お昼はどこかで食べているんだろうなと思って見てみたら駅前に屋台があったんです。  50年前は、駅前にラーメンとおでん屋の屋台があった時代です。私は、屋台はいずれなくなるなと思っていました。なぜなら、厳密にいうと道路交通法違反だったし、衛生面でも保健所が許さないなと思っていたから。そこで、屋台がなくなったら通っていたお客さんはどこに行くんだろうと考えて、「日高屋」をとにかく駅前にたくさん作りました。これが大成功!どこの駅前に出しても成功しましたね。
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新しい店舗は今も自分の足を使って決断
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医療従事者として都内総合病院に勤務していたが、もともと興味のあったWebライティング業界に思い切って転身。大手メディアと業務委託契約を結び、時事ネタ・取材をメインに記事を執筆。中には450万PVを達成した記事も。ちなみに国内外問わず旅行が趣味で、アメリカ・オーストラリアで生活をした経験もあるバイリンガル。現在、海外移住計画中
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