更新日:2024年12月12日 10:26
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日本最大の盆踊りの一つ「阿波おどり」を踊りすぎて処罰された武士がいた!?『禁断の江戸史』より

阿波おどりを踊ったことが原因で、武士が改易される

武士 天保12年(1841)には、とうとう阿波おどりのために改易される武士が出る。 「驚くべきは、処罰されたのが十代藩主・蜂須賀重喜(しげよし)の実子だったこと。当時、中老をしていた蜂須賀一角(いちがく)(石高千石)でした。  一角は、『市中の踊り舞台に出向いてはいけない』という禁令を無視し、祭の本番中にがまんできずに屋敷から抜け出し、取り締まりの番士に見つかってしまいます。  一角はすぐに自宅に連れ戻され、謹慎処分として座敷牢に入れられました。なのに翌年7月、またも牢から抜け出して外で発見されたのでした。  ただし、一角がいたのは、領内ではなく、讃岐国白鳥(しろとり)でした。有名な白鳥神社があり、時期が7月であることから夏祭りに参加していたのではないでしょうか。  徳島と白鳥の距離は35キロほどですが、江戸人の健脚なら一日で到着し、次の日には戻ってこられます。ですが、不運なことに一角は徳島藩の商人に見つかって飛脚で通報され、再び屋敷の牢にぶち込まれてしまったのです」

徳島藩は領民にも阿波おどりを制限した

武家屋敷 9月に参勤交代から戻ってきた十二代藩主・斉昌(なりまさ)はこれを知って激怒、なんと一角を追放処分とし、家は改易とした。  しかし11月になって中老・蜂須賀家には養子を迎えて家を再興、一角は引き戻され再び座敷牢に入ったのである。その後、一角がどうなったかはわからない。いずれにせよ、ずいぶんと厳しい処置だった。 「徳島藩は、家中に対して厳しかっただけではなく、じつは領民にもかなりうるさく阿波おどりを制限してきました。  江戸時代半ばまでは、阿波おどりはいまと違って、『組踊り』という形態が主になっていました。  町ごとに総勢百人を超える踊り手と囃子(はやし)方を組として組織し、三味線を先頭に巨大なあんどんをかかげて壮麗な踊りを繰り広げていくのです。他町に対してどれだけ派手で奇抜な踊りを見せるかで、互いの町組は激しく競いあったのです」
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阿波おどりが、全面禁止になりそうに……
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歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。

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