「平安京への遷都(794年)」の理由は“怨霊”だった…学生時代に習った日本史は間違っている?
学生時代、テストや受験のために必死に日本史の年号や出来事を覚えた人はたくさんいるはず。しかし、その覚えたことが違っていたとしたら……。
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。
例えば、「イイクニ」として語呂合わせで覚えた1192年に開かれたという鎌倉幕府については、全国に守護・地頭を置いて武家政権を獲得したのが1185年、1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年であり、いつ鎌倉幕府が成立したかについては諸説あって、教科書でも2段階にわけて紹介している。
そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。
『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』河合 敦 著より一部を抜粋し、再編集しています)
オカルト番組は大好きなのに、これまで一度も霊や化け物というものを見たり感じたりしたことがなく、残念ながら霊感はないという河合先生。しかし、霊魂の存在は信じているし、実際、悪霊や怨霊が古代では歴史をたびたび動かしているのだという。
「そんな馬鹿な……とあきれる方もいるかもしれないが、これは本当のことなのです。たとえば平安京への遷都、これも怨霊の仕業なのです」(以下、すべて河合先生)
かなり衝撃的な話だが、河合先生は以下のように説明する。
「桓武天皇は、政治に介入する大寺院の影響力を断つべく、784年に奈良の平城京から山背国の長岡京へ遷都。以降、桓武は長岡に住むようになったが、まだ都の造営は続いていました。
ところが翌年9月25日、都づくりの責任者であった藤原種継が何者かに射殺(いころ)されたのです。やがて犯人たちが逮捕されましたが、いずれも皇太子で弟の早良(さわら)親王の関係者でした。
『早良はかつて僧侶だったので、大寺院や一部の貴族と結んで遷都に反対するために種継を殺したのだ』そう信じた桓武天皇は、皇太子の地位を剥奪して淡路島へ流すことに決めたのでした。しかし早良は断固無罪を主張して一切の飲食を断ち、淡路島へ送られる船中で息絶えたのです」
そして早良の死後、次々と不幸な出来事が起きる。
「早良の遺体は淡路島に葬られたが、やがて桓武の身の回りで不幸が相次ぎます。
夫人の藤原旅子(りょし)、母親の高野新笠(にいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)、夫人の坂上又子(またこ)と、次々と親族が亡くなり、皇太子となった息子の安殿親王(あてのみこ)が原因不明の病にかかってしまいます。そのうえ天候不順による凶作となり、天然痘が猛威をふるい、長岡京も二度の大洪水にみまわれました」
あまりにも不幸が続いたため、桓武は占いをすることにした。
「桓武天皇が卜筮(ぼくせい)で占わせると「すべては早良親王の崇(たたり)りである」との卦(け)が出たのでした。驚いた桓武はすぐに淡路島に使者を遣わして早良の墓を清掃し、供養してその霊を慰めました」
けれど以後も悪いことは一向に収まりません。
「桓武天皇は早良の祟りだと信じ、神経をすり減らしていきました。たとえば宮門が倒れて牛が下敷きになって死ぬと、「私は丑年生まれゆえ、自分の死を暗示しているのだ」とか、寝ながら屋根の雨音を聞いていて、突然「土が降っている」と言って外へ飛び出すなど、神経過敏な状態になってしまうのです。
こうして、とうとう長岡京を捨てて平安京へ再遷都することにしたのです」
(この記事は、
怨霊のせいで都が移ったのはホント?
早良の死後、桓武の周りで不幸が相次ぐ
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。
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